「西周の学問と沼津」四方一瀰・平成20年11月27日(木)沼津朝日新聞投稿記事
西周の学問と沼津:四方一瀰
十一月十六日、沼津駅前に香陵ライオンズクラブが西周の記念碑を建立した。同クラブは今までも、畏友大場俊雄君をはじめ、会員の方々が長年にわたり、沼津兵学校や西周の顕彰に努め、明治初年、日本の近代文化が沼津の地に輝いたことを広く沼津市民に弘めてきた。
沼津兵学校については昨年、熊沢恵理子、樋口雄彦の二人の新進気鋭の学者が大著を刊行している。沼津兵学校に比べて西周の名はまだ知られていないが、十二日の本紙に、栗田昌彦氏が周到・綿密な紹介文を寄せられた。
西は近代日本の初頭を飾り、その後の我が国の帆近代的・科学的な学問・思想の方向付けをし、思考の法則をも打ち立てるなど、凡人には成しがたい不朽の業績を残した。彼が作った「哲学」「定義」「概念」「理想」「抽象」「主観」「肯定」「本能」など新しい概念・用語が今日、日常的に用いられていることからも知られる。
しかも、その西の画期的な思索が、沼津で、しかも今は道路となってしまったイーラdeの西端の一九番屋敷で生み出されたのである。いわば、我が国の近代的学問や、思想・科学的研究は沼津で、その「あまねガード」上り口の西の住居から生まれたと言うことができよう。
確かに西が沼津に在住した期間は二年足らずで、大きな著書を世に問うてはいない。この時期は、新しい学校=沼津兵学校の組織づくり・人材育成や教育課程の編成・学校経営に忙殺されており、学問的著書を世に問う情況ではなかった。
ではこの時期、西の思想や学問は等閑に付されていたのだろうか。否、である。
明治三年九月に沼津を去った西は、その翌月には、東京に育英舎を創設し、『百学連環』で、もろもろの学問を「普通学」と「殊別学」に大分し、「殊別学」を、さらに「心理上学」と「物理上学」に専門分化して学問領域を明確にするが、しかも、それら個別の学問を哲学によって統一的組織的に考察しようとする壮大な学問体系の構築を意図した講義を行っている。
これは公務や健康上の問題で完成はできなかった。柳田泉が、それが大成していれば「明治文明における日本人の学問的業績の最大な一つとして、おそらくは世界に誇れるものとなっていたであろう」と述べた画期的なものであった。
この宏壮な学問体系が離沼後の多忙な一カ月の間に構築されたと見ることは不可能であり、沼津で想が練られていたのである。
この学問構築のため、日本にも中国にもなかった思考の形式である「論理学」を沼津兵学校で初めて講義し、明治二年、〔沼津で「学原稿本」を起稿。やがて『致知啓蒙」として出版している。三年には近代的な思想のもとに国学・儒学を批判した「復某氏書」を記し、さらに言葉を正しく伝えるために日本語文法論「ことばのいしずゑ」も沼津で作られたと考えられている。
そのほか、沼津で政律(法律学・政治学)・史道(論理学・哲学・文学・歴史学)・医学・利用(数学・物理学・化学・経済学)を包摂した、我が国最初の総合大学構想「沼津学校追加掟書」・「文武学校基本井規則書」(津和野藩主に提出)が練られた。
このように、封建社会から近代社会への転換期に画期的な日本文化構築の役割を果たした西の主要な業績は、沼津で創出されたと見られるのである。
(元国士舘大学教授.沼津史談会会長、松下町)
(沼朝平成20年11月27日「言いたいほうだい」)