代戯館

(明治史料館「沼津兵学校」より)


代戯館

代戯館は、明治元年9月、移住早々の旧幕臣たちが子弟の教育のために設けたもので、いわば沼津兵学校附属小学校の前身ともいうべきものである。沼津添地町の長屋の一棟(のち片端の家屋)を教室にあて、雨戸に墨を塗って黒板の代りにし、ゴザを敷いて授業を行うといった、仮設の学校であったが、素読・手習に加え洋算も教えるという先進性もそなえていた。教員は、亀里樗翁・築山正三郎・大平俊章・石川東崖・山内某ら45人、生徒は5060人であったという。



●創立百年を迎えて(沼津市立第一小学校・創立百周年記念誌より)

初期時代を偲ぶ・大野虎雄

沼津の地は明治維新を遡ること約九十年、安永六年に水野忠友の城地となり、以来明治元年に至るまでに八代の城主を迎え、うち忠友・忠成・忠誠の三人は老中として幕閣に重きをなした。ところが明治元年廟議数回ののち、徳川氏の領地を駿河国一円とその余は遠江・三河両国のうちで計七十万名と定め、後嗣は旧安亀之助すなわちのちの徳川家達と決定したので、当時六歳の家達は八月九日、東京を立って駿府(静岡)に向い、そのあと臣幕臣の多くは主家に随従して駿遠の地に移佳するものが、あとをたたなかった。

その以前駿遠地方の大名たちは、房総各地に国替となり、当時の沼津藩主水野忠敬は七月二十七日、領地のうち徳川藩に関係ない伊豆の戸田村へ退き、藩士も近在の寺院農家等へ引き移り、翌二年正月藩主を始め家臣一統も新領地上総国市原郡菊間村へ向った。

こうした事情で明治元年八月以降翌二年にかけて、水野藩士屋敷跡や近在の民家等へ旧幕臣が続々とつめかけ、その家数は二千余といわれ、沼津付近の人口が急激に増加したoそこで藩費をもって東西両椎路・東沢田.小林・岡一色・元長窪遠くは富士郡万野原等合せて約五百戸の長屋を建設し、さらに幾分余力のある者には補助金を出して住宅を建築させた。一方生活面では一部藩の役職についた者以外は、真の無禄移住であるから農事開墾に従事してみても直ちに収益があがる訳ではなく、差当りの生活に困るので藩では当座の凌ぎとして元高に応じ、僅かの扶持米を支給した。

一、代戯館

こうした佳宅難と生活難では到底他事を顧みる余裕はなかったであろうが、さすがに江戸文化に浴した人々で、子弟の教育は一刻も忽せにせず、一部の移住した明治元年九月早々に学校設置の計画を立て、添地の長屋を一棟借受け素読・手習・算術の三科を授けることとし「代戯館」と名づけ、雨戸に墨を塗って黒板とし、茣蓙を敷いて座席を作った。その当時の教師として亀里樗翁(のち附属小学校教授方並)・築山正三郎ら四〜五人、生徒五〜六十人であったという。十月には沼津城西南隅、外濠内の屋敷二戸を改造して仮校舎としたが、とにかく九月に移住してきて、その月のうちに学校と名づけべきものを開設し、洋算までも学科の中に加えて沼津の初等教育に先鞭をつけたことは驚嘆に値いする。その流れを汲む現在の沼津市立第一小学校が、全国最古の小学校だという所以である。

二、徳川家兵学校附属小学校

徳川家兵学校(一般には沼津兵学校という)は余りにも有名であるから、この際これに触れることは避けるが、ただ当時わが国で最も高度の教育を施した学校で、他藩からも例外を認めてもらって留学に来る生徒が多く、また全国の諸雄藩からは教師の派遣を要請してきた。したがって普通の学力では、この兵学校へ入学することができなかったので、ここに予備教育機関の必要が生じた。これが兵学校附属小学校である。

兵学校頭取西周助()はオランダに留学した蘊蓄を傾けて、高尚にして斬新な兵学校掟書を制定したが、附属小学校掟書の方は同じくオランダに留学し、帰朝して兵学校一等教授方に就任した赤松大三郎(則良)が草案を作成し、西頭取が校訂したものである。

この小学校は明治元年十二月八日に開校した。世上本校の開校を二年一月八日という者があるが、その誤りなことは次の回状によっても明らかで、一月八日は授業開始日である来る八日より小学校御開相成候に付有志の向は入門修業可有之年齢は制限なし学業は幼年の者と同様に授くる事但謝金は弍朱づつ納めること.辰十二月五日(駿東郡誌所載)掟書の日付は明治元辰年十二月廿日とあるが、これは発表が遅れたのであろう。

こうして先に設立された代戯館をこれに引き継ぎ、その仮校舎を使用して翌二年一月八日から授業を開始した。教室は三〜四〇坪の畳敷で生徒は寺小屋式平机で授業を受けた。尤も附属小学校から卒業生の出るのは一年余り先のことであるから、兵学校としては応念的に「予備科」を設け、ここで速成的に修業したものを入試の上で順次入学させていた。

小学校の入学資格は七〜八歳以上で徳川藩士の子弟はもちろん、農家・商家の子供も入学を許され、入学金百疋(一疋は二十五丈)月謝二朱(一朱は一両の十分の一)を徴収した。修業年限は定めなく、成績の優劣により適宜進級させた。

学科は素読・手習・算術・地理・体操.剣術・乗馬・水練・講釈聴問で、それぞれ一級から三級までに分ち、第三級に進んだ者が成績優秀なら学科表以外の教授も施しており、修業年限を定めないことと相まって、天才教育の精神を発揮していたことが窺われる。初代頭取は兵学校三等教授方蓮池新十郎が兼務し、その下に各学科を担任する専門の教授方が二十数名おり、学科の教授、月々の試験、進級、賞罰等を行ない、操行の点にも注意を払い、怠惰乱暴の行動があるとか、師命を守らないときは訓戒を加え、罰を科し、それでも反省しない者には兵学校頭取へ届出て放校処分にすることもあった。

三、静岡藩小学校

明治二年八月の静岡藩制改革に件い、学校制度も改められ、翌三年一月藩内各小学校に共通の掟書が制定されたが、内容は沼津に関する限り附属小学校の時と大差なく、依然兵学校頭取の指揮監督を受け、予備校としての役割を果してきた。しかし校名は「静岡藩小学校」と改められ、学級は従来の三段階が初級・一級・二級・三級の四段階となった。学科も乗馬が除かれたが、三級に英仏語学の初歩が加えられ、進歩の著しい者には漢学や英仏会話、数学は級数・対数なども教授きれた。

生徒数の増加に伴い今までの仮校舎が狭くなったので、沼津城丸馬出門外(今の上本通ボールビルの辺)に洋風瓦葺二階建の新校舎を建築し、明治三年四月ここに移った。兵学校一等教授方赤松大三郎の設計にかかり、建坪百五十坪、教室数十二、座席は高机腰掛式の新設備となり、別棟は女生徒専用であった


沼津兵学校ができるまで(明治史料館発行「沼津兵学校」より)

徳川幕府の滅亡

嘉永6(1853)のペリー来航は、日本を太平の眠りからさます大きなショックであった。開国・開港は、鎖国体制を打ち破り、日本を世界資本主義の輪にくみ入れた。それにともない、国内では封建制・幕藩体制の矛盾がますます激化し、民衆のレベルでも変革を求めるエネルギーが噴出し、「世直し」一揆や打ちこわし、「ええじゃないか」などが続発した。一方、政治の支配レベルでは、尊王撰夷運動や公武合体運動など、従来の徳川幕府専制をゆるがすような動きが現われ、ついには薩摩藩や長州藩を中心に討幕派が形成されるに至った。

慶応3(1867)10月、十五代将軍徳川慶喜は、行き詰った政治状況を打開するために、公議政体派(公武合体派)の土佐藩の勧めに従い、大政奉還を行い自ら政権を投げうった。しかし、薩長討幕派は、徳川家が依然として日本最大の大名・最強の実力者として存続することに満足せず、大政奉還と同日に討幕の密勅を手に入れ、12月には宮中クーデターを起こして、王政復古の大号令を発した。クーデター同夜の小御所会議では、徳川慶喜に辞官納地を命令することが決定された。


戊辰戦争

小御所会議の結果に激昂した旧幕府軍は、慶応4(1868)1月大坂城を発し京都に進撃、薩長軍はそれを鳥羽・伏見で迎え撃った。結局この戦いで徳川方は敗北し、慶喜は江戸へ逃げもどった。

朝敵となった徳川家に対し、官軍は征討の軍を進めた。慶喜は恭順の意を表して謹慎し、411日には西郷隆盛と勝海舟の努力によって江戸城が無血開城された。しかし、旧幕臣の中にはあくまで官軍に抵抗戦を挑む者も多く、それ以後、上野の彰義隊戦争、奥羽越列藩同盟の結成
と会津戦争・北越戦争、榎本武揚の蝦夷脱走・箱館戦争と内乱が続いた。



静岡藩の成立

慶応44月、謹慎中の慶喜に代って、わずか6歳の田安亀之助(徳川家達)が徳川家の家名を継ぐことを許され、5月には駿河府中70万石(駿河・遠江・三河の一部)の藩主に任命された。こうして徳川家は、天領800万石の将軍家からわずか70万石の一大名に転落したのである。

7月には慶喜、8月には家達が駿府入りし、それに従う旧幕臣たちも江戸から続々と移住を開始し、駿府をはじめ、沼津・田中・小島・相良・横須賀・掛川・浜松など、旧藩が転封されたあとの各城下などへ割り付けられることになった。藩士とその家族を合せて移住者の数は10万人を越えるといわれる。そのうち藩の役職につけた者はほんのわずかで、大多数が無禄移住者であった。

牧之原や三方原の開墾、沼津の江原素六らによる愛鷹山の牧畜、渋沢栄一の商法会所設立などは、厖大な家臣団をかかえる静岡藩が真先に手がけなければならない士族授産事業の一環であった。このような背景のもと、静岡学問所や沼津兵学校は設立されたのである。


2012年05月09日 17時36分

代戯館

 沼津兵學校附腸小學校概要

 沼津の地は安永六年(紀元二四三七年)水野出羽守忠友が三州大濱より轉封となつて以來九十年間其の城下であつたが、維新の大變革に際し駿河國一圓は廟議により徳川氏の領する所と決したので、水野氏は明治元年七月上総國菊間へ移封された。此時沼津城の受取は奮幕府の陸軍副総裁志摩守藤澤長太郎にょつて行はれ、八月以降江戸より奮幕臣の沼津に移住し來る者漸く多くなつた。之等の人々は初め片端(カタハ)、添地(ソエチ)、西条(サイジョウ)、香貫村中原等に在つた水野家の小呂家(コロヤ)(當時獨立した住宅の通稱)や長屋約五百戸に割附けられたが、其後陸續として入込んで來る者迄は到底収容する事は出來ず、市中や近郷の寺院は勿論、民家でも幾分余室の存する所へは強制的に割當て寄寓せしめて、僅に雨露を凌ぐ事が出来たのである。何しろ明治元年から二年にかけて沼津と其近郷へ殺到した舊幕臣は、戸數にして約二干五百と云はれ、從來の人口が一擧にして二倍以上にもなつたのであるから、其の佳宅難は今日の比ではなかつた。

 藩當局就中移佳掛では此の状態を見て、差詰め幾らか余力のある者には補助金を與へ、各自に佳宅を建築せしめた。之を自家作(ジガサク)と称し其の補助金は二十両で、之が城内邊に約百戸程も出來た事であらう。又小林、岡一色(ヲカイニキ)、態堂(クマンドウ)、澤田、椎路(シイジ)等愛鷹山麓の村々へ割附けられた者は、其寄寓先が多くは手狭な農家の事とて、之亦何時迄も放置出來ず、明治二年より藩費を以て各所に急造バラックが建造された。東西両椎路村の五十戸、東澤田村笹見窪(ササミクボ)の約百戸、小林岡一色村の約五十戸、稍々離れた元長窪村の約百戸、遠くは富士郡萬野原の約二百戸等が夫れである。之等の粗末な住宅は勿論地元の材木も使用したが、初期のものは多く江戸から運んだものである。即ち維新の大変革により從來江戸に上(カミ)、中(ナカ)、下(シモ)等の屋敷を持つて居た大小の諸侯は、夫々の本國へ引き上げて仕舞つたので、さしも繁華であつた江戸市中も空屋が激増し、住ふに人なく何れも處置に窮して、殆ど只同然で売払ふ者が続出した。沼津の移住掛は之に着目し、極めて安價に買取つて沼津へ運搬した。現に駿東病院で使用して居る本館中央の一棟の如きは薩摩屋敷を移したものであり、又愛鷹山中の元長窪へは仙臺屋敷が二十棟近くも運搬され、其他の各地へも江戸から運んだ長屋が続々建てられた。

 交通不便の當時之等の建物を如何にして遙々沼津迄運搬したかと云ふに、古老の言によると今日でも至難とされて居る海洋筏を利用したとの事である。即ち買取つた建物を解體して、之を丈夫な綱を以て筏に組合せ、品川から汽船に曳航せしめて相模灘の荒波を乗切り、伊豆半島を迂回して沼津に陸揚げしたものである。本船へは人と荷物を積込み、其の上此の筏を曳いて來たもので、之を幾回となく繰返した労苦は實に並々ならぬものがあつた。夫にしても當時住宅難の緩和策として之だけの苦心が払はれた事は能く肝銘すべきであらう。

 住宅難と生活難の中から生れた代戯館

 移佳者は斯る佳宅難に加ふるに、一朝にして禄を離れた所謂無緑移住と云ふ生活難にも直面して、全く束の間に生活の根底が脅かされるに至ったのである。即ち徳川家の駿遠地方移封と決定した明治元年五月、舊臣に対して朝臣か、帰農か、無禄移住か三者その一を選ぶべき旨が達せられた。?に無緑移佳とは從來幕府より下賜されて居た邸地、知行、緑高一切を朝廷へ上納して駿遠の新領地へ移住することであり、一部役職に就く者には役扶持が支給されるが、他の大部分は此時限り武士から転業して、新領地で農事開墾等に從事しなければならなかつた。併しいざ移住して見ると直ちに生活費を得る様な職業がある筈はなく、農業に從事しても収益をあげるには相當の年月を要し、差當り生活に窮するので、藩でも當座の凌ぎとして舊禄に応じ次の通り扶持を支給する事になつた。

無役者は極度の生活難を免れなかつた。

 斯くの如き住宅難と生活難とでは、到底他事を顧みる余裕のなかつた事は想像に難くない。併子弟の教育は一刻も忽せにせす、一部の移佳した九月早々學校設置の事を企て、添地の長屋を一棟借受け取急ぎ素讀、手習、算術の三科を授くる事となし之を『代戯館』と名づけた。讀んで字の如く遊戯に代へるの意で雨戸に墨を塗つて黒板となし、茣蓙を敷いて座席を作つた。時に教師として亀里樗翁、築山正二郎等四五人、生徒五六十人あつたと云ふ。翌十月片端(カタハ)に適當な家を見出しその五番、六番小呂家(コロヤ)に引き移つたが、兎に角九月に移住して來て、其月の内に已に學校と名つくべきものを開設し、洋算迄も學科の中へ加へて沼津丈化の礎石を築いた事は全く敬服と感謝に堪へぬ所である。此の代戯館こそは明治元年十二月、沼津兵學校附屡小學校へ引継がれた本邦小學校の嚆矢たる榮誉を擔ふべき極めて意義深き存在で、濁り沼津のみならす我國に於ける新式初等教育機關の濫觴である。

 豫備校としての附属小學校

 沼津兵學校は當時我國に於ける最高級の學校にして、殊に泰西の新兵學を授ける此の程度の學校は他に一つもなく、其の學科の如きも極めて斬新且つ高尚であつた。從つて普通の學力では同校へ入學することは到底不可能であつたから、爰に豫備教育機關の必要が生じて來た。尤も江戸にて兵學校の創設準備をしていた当時にあっては、一二等教授方は學校詰とし、三等教授方は舊臣の移住した村々に五十戸に付二人宛配属し、此處で豫備教育を授け、成績優秀の者から順次兵學校へ入學せしむる豫定であつたが、兵學校頭取となつた西周助(後周)は、斯くては一貫せる教育を施す事の困難なるを察知し、明治元年秋自ら兵學校掟書を撰定するに當り、豫定を攣更して之に附随すベき、豫備教育機關たる附島小學校を沼津に設置することを決定した。而して此の小學校の骨子となるべき掟書の立案起草を、自分と同時に欧洲へ留學し、後れて帰朝した赤松大三郎(後則良)に委囑した。

 此の小學校は明治元年十二月八日を以て開校した。世上往々にして本校の開校を明治二年一月八日なりと云ふ者あるが、其の誤りなる所以は次の如き回状を見るも明かであつて、一月八日は授業を開始した日である。

 來る八日より小學校御開相成候に付、有志の向は入門修業可有之.年齢は制限なし、學業は幼年の者と同様に授くる事、但謝金は貳朱づゝ納める事 辰十二月五日(駿東郡誌所載)

 斯くて曩に設立された代戯館を之に引継ぐ事となし、其名も『徳川家兵學校附属小學校』と改め沼津城内の西南隅、外濠沿ひに在った建物一棟を改造して仮校舎となし、明治二年一月八日より授業を開始した。仮校舎は四五十坪位の畳敷で、生徒は寺小屋式平机の前に坐し教授を受けた。一方兵學校側では此の小學校より修業生の出るまで、空しく待つて居る事は出來ないので、應急に「豫備科」なるものを設け、元年秋より移佳奮臣の子弟中、年齢三十歳以下の者にして、陸軍総括服部綾雄より入學を命ぜられた約三百名を之に編入し、速成的に必要の學科を修得せしめ、數回の入學試瞼を行つて順次之を兵學校へ入らしめた。併し一年位経て小學校より修業生が出る頃には、此の豫備科は廃され、定則通り小學校を卒へた者を試験の上入學せしめた。

 附属小塵校の組織と特色

 生徒は総て童生と稱したが、其後に至り年長者も入學する様になつたので、明治二年五月より十九歳以上の者は小學員外生と呼ぶことに改められた。入學資格は七八歳以上にして徳川藩士の子弟は勿論のこと、一般農家商家の者でも入學を許され、此點兵學校の方が最初徳川藩士の子弟のみに限つたのと、大いに趣を異にして居た。又兵學校では全然授業料を徴牧しないのみか、月月四両の手當を支給して居たのに反し、小學校では入學金として百疋(廿五銭)授業料として月月二朱(十二銭五厘)を微牧した。但し陸軍兵士や無緑移住者中身分低き者の子弟に限り之が夫夫牛減され、其の外に両者共盆暮に教師一同への謝禮として、入學金相當額を納める事になつて居た。修業年限には定めなく成績の優劣により適宜進級せしめたが、兵學校へ入學を志願する者は少くとも十八蔵迄に業を卒へねばならなかつた。

 學科は素讀、手習、算術、地理、體操、剣術、乗馬、水練、講釋聽聞にて夫々一級より三級まで三段階に分れ、各級毎に教授項目を指定してある。尤も素讀、手習、算術の三科は自宅で父兄が授業をすることも許されたが、さればと云つて兵學校の入學試験に際し、所定の學科の受験を拒む等のことは出來なかつた。體操は休日以外毎日之を課し、其の時間中日を定めて剣術と乗馬の稽古をなし、又毎日曜日の午前には講釋聽聞即ち今日の修身を課して居たが、之等は地理と共に宅稽古は一切許されなかつた。水練は夏期狩野川又は我入道海岸で行はれたが、剣術と云ひ乗馬と云ひ、體錬には最も重きを置いて居た事が分る。斯くして第三級に進んだ者が成績特に優秀なれば、本人の希望により學科表以外の教授も施して居り、前述の修業年限を定めない事と相侯つて、所謂天才教育の精神を発揮した事が窺はれる。

 操行の點も非常に嚴格で、若し怠惰乱暴の所業とか、師命を守らない様な事があると、捧滿、黙坐、逗校、禁足等の罰が科せられた。右の内捧滿とは茶碗に水を流して一手に之を捧げ、他の一手には火を點じた線香を持たしむる事であるが、笞杖即ち笞にて打擲することは嚴禁されて居た。又教師の依怙贔屓等にて童生側に不服のある場合は、保護者は其の眞偽を確めた上、十分の證據ある時は、兵學校頭取へ訴へ出る事が出來、偏頗な措置に陥らぬ様な封策が講じられて居た。

 本小學校は兵學校頭取の管轄に属し、學業の定課や教授方の選任は其の決する所であつたが、其他の校内の諸事は総べて小學校頭取が処理して居た。兵學校頭取は小學校教授方の内、相當の年配で且つ器幹ある者より、若し小學校に適當の者がない時には兵學校教授方の内より、小學校頭取を任命するが、初代の頭取には兵學校三等教授方蓮池新十郎が兼務を命ぜられ後頭取專任となつた。頭取の下には夫々の學科を擔任する專門の教授方が居り、何れも頭取の指圖によつて銘銘受持學科の教授、月々の試験、三級の及落、生徒の賞罰等を行つた。各教授方は単に學業を授くるのみでなく、生徒の操行にも常に注意を払い、怠惰や不行跡の者には十分訓戒を與へ、之を聞入れない時は保護者をして折檻を加へしめ、更に自悔の意が現れない者は兵學校頭取へ届出た上、放校処分に附する事もあつた。又各教授方は既述の如き定められた謝儀の外は、一切之を受取つてはならぬ事になつて居たが、授業の余暇を以て生徒五人を限り、宅稽古をする事は許されて居た。

(沼津兵学校附属小学校:大野虎雄著書)