沼津兵学校附属小学校教授

(沼津市明治史料館「沼津兵学校」より)







2013年03月25日 11時15分

藩内外に広がった沼津兵学校附属小学校の影響
 樋口雄彦教授平成25年3月23日講演  記念講演会1動画  講演会2動画  講演会3動画


主な沼津兵学校附属小学校教授

蓮池新十郎はすいけしんじゅうろう(頭取)

最初兵学校三等教授方として操練打方を担当していたが、後に附属小学校の頭取を兼任した。明治3年閏10月阿部潜や息子の源吾らとともに薩摩藩に招かれ鹿児島に赴任、同藩の教育改革を援助した。その後の経歴不明。

 

名和謙次なわけんじ (素読教授方)

天保12年江戸に生まれる。昌平黌で学ぶ。附属小学校の教授のほか、兵学校の教授方手伝などもつとめた。廃藩後も沼津に残り、集成舎や沼津中学校で漢文や修身を教えた。江原素六の後をうけ沼津中学校長になったが、明治19年同校の廃校により静岡師範学校に転じた。明治24年没。

 

尾江川知三(手跡教授方)

旧名清。廃藩後も沼津にとどまり、集成舎の習字担当教師をつとめたほか、第十四番中学区の学区取締などに任命され、集成舎への外国人教師招聰を行い、沼津中学校の幹事もつとめた。その後、御殿場村外11ヶ村戸長や中山村外8ヶ村戸長などになり、北駿地方の行政を担当したが、その後の経歴は不明。

 

生駒藤之いこまふじゆき(素読教授方)

天保14年生まれ。旧幕時代には、昌平黌・講武所・海軍所・開成所などに学ぶ。附属小学校のほか、寄宿寮取締などもつとめ、明治312月には分校の万野原学校所の頭取に転出した。廃藩後も富士郡下にとどまり、比奈・富士岡村連合小学校の校長に迎えられ、明治37年まで在職した。大正8年没。

 

山田 楽やまだたのし (素読教授方)

天保11年下総国佐倉藩士の子に生まれる。幕臣山田家の養子となる。旧名良助。附属小学校在職中の明治311月、阿波の徳島藩に招かれ、同藩の教育改革に力を貸し、「徳島藩小学校掟書」を制定した。そのまま徳島に残り、名東県大属・徳島師範学校長・国立第八十九銀行頭取・阿波商法会議所会頭・徳島市会議員・同市会議長などをつとめ、明治36年没。

 

山田 大夢やまだたいむ(教授方手伝)

文政12年生まれ。本名を木村正規といい、下総国関宿藩の重臣であった。維新時には藩内の佐幕派として、彰義隊の戦いに参加、逃避行のすえ、従弟の山田楽とともに沼津に移住し、山田大夢と改名した。附属小学校の教授方手伝に採用され、寄宿寮取締などもつとめた。廃藩後も沼津に残り、集成舎校長・静岡師範学校長・静岡中学校長・豆陽中学校長などをつとめ、明治22年に没した。

 

亀里樗翁(素読教授方並)

附属小学校設立以前は、その前身代戯館で教えていた。その後の経歴はまったく不明。唯一、明治4年に江原素六が海外視察に出発するに際して、その航海の安全と前途を祝した和歌をしたためた短冊が残されている。

 

石川 東崖いしかわとうがい (素読教授方並)

最初代戯館の教師だった。廃藩後も沼津にとどまり、集成舎で漢学を教えていた。著書に、明治8年沼津で刊行された『小学教授書類読鍵』がある(写真)。その後の経歴不明。

 

 

関 大之(算術教授方)

廃藩後もしばらく集成舎で教えていたらしいが、その後上京し、明治8年からは開拓使御用掛として北海道で三角測量を行った。さらに内務省地理局を経て陸軍参謀本部陸地測量局・陸地測量部に奉職し、近代日本の測地事業に貢献した。

 

浅田 耕(沢田学校所教授方)

旧名耕三。廃藩以前の明治44月に韮山県へ出仕を命ぜられ転出。同県で大属試補などをつとめ、足柄県にも引き続き奉職。しかし、その後上京したらしいが、詳しい経歴は不明。