沼津兵学校教授



主な沼津兵学校教授

 

塚本 明毅 つかもとあきたけ(一等教授方)

天保4年幕臣塚本法立の子として江戸に生まれる。旧名を桓輔・桓甫といい、寧海と号した。昌平学で漢学を学び、矢田堀鴻・田辺太一とともに三才子と称された。安政2年から長崎海軍伝習所に学び、以後軍艦操練所教授などをつとめたほか、小笠原諸島の測量などに従事した。沼津兵学校時代には、数学史上の名著『筆算訓蒙』を刊行し、明治3年に西周の後を受けて2代目頭取となった。兵学校の政府移管とともに兵部少丞・兵学大教授となり、その後は太政官地誌課長などとして、地誌の編纂や祝祭日の制定などを実施した。

 

大築 尚志 おおつきたかゆき(一等教授方)

天保6年下総国佐倉藩士大築弥一の子に生まれる。初名保太郎。佐倉藩は洋学が極めて盛んだったため、大築も早くから手塚律蔵らに師事して洋学を学んだ。文久2年には蕃書調所の教授方手伝を命じられ、幕府に仕えることになり、元治2年には富士見御宝蔵番格歩兵差図役勤方として正式に幕臣に取り立てられた。幕臣時代は、大鳥圭介とともに兵学書の翻訳に従事したり、横浜でフランス式陸軍の伝習を受けたりした。幕府瓦解後は、阿部潜の依頼で沼津兵学校の設立に協力し、西周の頭取就任を交渉し、自らも一等教授方となった。明治4年には頭取並に昇進したが、兵学校の政府移管とともに兵部省に出仕した。その後は、陸軍省第三局副長・砲兵本廠提理・砲兵局長・砲兵隊編制審査委員長・砲兵会議議長・砲兵監などを歴任し、明治32年には陸軍中将となった。明治33年謎の自殺を遂げた。山県有朋との不和が背景にあったらしい。大築は、陸軍砲兵工廠の創設者であり、砲兵科の重鎮であった。なお、彼の弟には、手塚律蔵の養子手塚拙蔵や幕末のロシア留学生大築彦五郎がいる。また、息子の大築千里は京都帝大教授・工学博士になり、女婿田中義一は陸軍大将・内閣総理大臣になっている。

 

赤松 則良 あかまつのりよし(一等教授方)

天保11年幕臣吉沢政範の子に生まれた。旧名大三郎。幼少時より坪井信道・信良らに蘭学を学び、安政4年には蕃書調所句読教授方出役に任命され、また第3期生として長崎海軍伝習所で学んだ。その後築地の軍艦操練所の教授をつとめ、万延元年には成臨丸の乗員に選ばれ、測量方兼運用方として太平洋を横断した。文久2年には幕府のオランダ留学生として、榎本武揚・津田真道・西周・林紀らとともに渡欧し、海軍関係の技術、特に造船学を勉強した。明治元年5月に帰国、榎本武揚の脱走軍に参加しようとしたが、榎本に説得され、遠江国見付(現磐田市)に移住した。沼津兵学校の設立に際して一等教授方に招かれ、「徳川家兵学校附属小学校掟書」を起草したり、得意の洋算を教授したほか、附属小学校の校舎を設計するなど、才能を発揮した。しかし、明治3年春には政府の命令により上京、兵部省に出仕した。以後、海軍兵学寮大教授・兵部少丞・兵部大丞・海軍大丞・主船寮長官・横須賀造船所所長・海軍省副官・主船局長・機関本部長・海軍造船会議議長・兵器会議議長・左世保鎮守府司令官・横須賀鎮守府司令官などを歴任し、男爵・海軍中将となり、貴族院議員もつとめた。晩年は見付に隠棲し、大正9年に亡くなった。


生年: 天保12.11.1(1841.12.13) 
没年: 大正9.9.23(1920) 
幕末明治期の海軍軍人幼名大三郎。江戸幕府御家人吉沢雄之進の次男。播磨国網干(姫路市)の商家であった父方祖父赤松家を継ぐ。下田奉行与力として外国船の応接に当たった父の勧めで蘭学を学び,安政4(1857)年蕃書調所句読教授出役,同年中に長崎での海軍伝習生に選ばれ6年3月まで伝習。万延1(1860)年咸臨丸に乗り組んで米国に航海文久2(1862)年オランダ留学,明治1(1868)年まで造船学を学ぶ。3年兵部省出仕。7年台湾出兵の際は艦隊を指揮した。造船技術に優れ,9年には従来フランス人が主導権を握っていた横須賀造船所所長となり,日本人のみの手になる初の本格的軍艦磐城」の建造を指揮した。19年には海軍技術の最高責任者たる海軍造船会議議長兵器会議議長。20年に男爵,海軍中将に進む。佐世保鎮守府の建設を指揮し,22年その初代司令長官となる。のち横須賀鎮守府司令長官。長女登志子は森鴎外に嫁す。<参考文献>赤松範一編『赤松則良半生談』 
(鈴木淳)

出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

 

伴 鉄太郎 ばんてつたろう(一等教授方)

箱館奉行支配の出身。安政3年から長崎海軍伝習所に学ぶ。万延元年威臨丸の渡米に際し、その乗組員となり、測量方をつとめた。帰国後は、軍艦操練所教授方頭取・軍艦頭などに任ぜられ、幕府海軍の中堅として活躍した。沼津兵学校では一等教授方をつとめ、後に政府に出仕し、海軍水路部副長になった。明治35年、海軍大佐で没した。

 

田辺 太一(一等教授方)

天保2年幕府の儒官田辺石庵の子に生まれた。蓮舟と号す。昌平黌での修学時代は秀才として知られ、甲府の徽典館の教授にもなった。安政6年以後は外国方に勤務し、幕府の外交官として活躍するようになり、文久3年には横浜鎖港談判のため第二次遣欧使節に外国奉行支配組頭として随行した。慶応3年にはパリ万国博覧会に出席する徳川昭武に随行した。維新後は、当初横浜で商業に従事したが、明治25月沼津兵学校に招かれ、その教授に就任した。明治31月には外務少丞として政府に出仕し、翌14年の岩倉使節団には一等書記官として随行した。後には元老院議官・貴族院議員などに任ぜられたが、晩年は漢詩に親しむ引退生活を送った。大正4年没。

 

渡部 温(一等教授方並)

天保8年幕臣渡部重三郎の子に生まれる。旧名一郎。父に従い、長崎・下田・神奈川などで幼少時を過ごす。その間英学を学び、やがて蕃書調所英学句読教授出役に任命され、さらに開成所教授並となった。維新時には、柳川春三らとともに「中外新聞」を発行し、佐幕的論陣を張った。沼津兵学校時代には多くの書籍を出版した。特に『通俗伊蘇普物語』は、イソップ物語の英訳本を最初に翻訳したものであり、当時のベストセラーになった。その後政府に出仕し、長崎外国語学校長・長崎師範学校長・東京外国語学校長などをつとめ、後年は東京瓦斯・東京製綱・横浜船渠などの重役として実業界で活躍した。明治31年没。

 

乙骨 太郎乙(二等教授方)

天保13年昌平蟹の儒官乙骨耐軒(彦四郎)の子に生まれる。昌平欝で漢学を、箕作麟祥に蘭学を学び、万延元年蕃書調所書物御用出役に任命され、以後同翻訳筆記方出役・開成所教授手伝並出役・御徒目付・外国奉行調役・歩兵差図役格軍事掛附などをつとめた。沼津では、兵学校で教えるかたわら自宅でも私塾を開き、田口卯吉らを教えた。明治3年には一等教授に昇進し、続いて静岡学問所の英学主任に転出した。明治5年上京し、大蔵省翻訳局教頭になり、その後は海軍でも翻訳の仕事に従事した。大正11年没。

 

浅井 道博 あさいみちひろ(二等教授方)

500石の旗本の生まれ。旧名六之助・雁六。元治元年11月より開成所取締役をつとめ、慶応33月には砲兵差図役となった。沼津兵学校では二等教授方となり、測量や数学を教えた。明治4年の兵学校政府移管により、陸軍少佐兼兵学権助となり、さらに上京後の明治6年時点では陸軍兵学寮の兵学頭(大佐)をつとめていた。明治141月から186月までは参謀本部副官をつとめたほか、162月から海防局長の任にあった。陸軍歩兵大佐となり、明治18年没。幕臣荒井清兵衛の娘を夫人としており、荒井郁之助や田辺太一とは義兄弟にあたる。

 

間宮 信行 まみやのぷゆき(三等教授方)

天保5年幕臣間宮信成(将監・梅翁)の子として生まれた。父は玉薬奉行などをつとめた人。旧名鉄太郎。幕末には、講武所で学び、砲術教授方出役・大砲差図役頭取・砲兵頭並・砲兵頭などをつとめた。戊辰戦争時には上総国に脱走したこともあった。沼津兵学校では三等教授方・二等教授方をつとめ、その兵部省移管とともに政府に出仕した。以後、砲兵局分課・造兵司出勤・第三局二課長・砲兵本廠副提理・砲兵会議議員・参謀局第七課長・参謀本部海防局員などを歴任し、砲兵中佐となり、明治24年に退役。小銃・大砲・弾薬の開発・研究・審査など、軍事技術部門に大きく貢献した。なお、息子の間宮信勝(六三郎)も沼津兵学校の資業生であった。

 

山内 勝明 やまうちかつあき(三等教授方)

嘉永元年生まれ。旧名文次郎。幕末には、砲兵差図役勤方などをつとめ、慶応元年からは横浜語学所でフランス語を学んだ。慶応3年にはパリ万国博覧会に出席する将軍名代徳川昭武の一行に随行した。留学生としてフランスで勉強したほか、スイス・オランダ・ベルギー・イタリアなどを歴訪した。帰国後、沼津兵学校の三等教授方としてフランス語を担当した。明治2年秋、早くも明治政府に出仕し上京、陸軍に入った。後には外務省に転じ、明治15年三等書記官としてロシアに赴き、翌16年にはイタリアに転勤、さらに17年からはイタリア駐在臨時代理公使をつとめた。その後は宮内省に入り、大膳亮・式部寮御用掛・式部官・宮中顧問官を歴任し、大正元年に亡くなった。

 

永持 明徳 ながもちあきのり (三等教授方)

弘化2年生まれ。旧名五郎次。上総国の豪農に生まれたが、幕臣永持亨次郎の養子となった。亨次郎は、長崎奉行支配組頭・外国奉行支配組頭などをつとめ、長崎海軍伝習所でも学んだ人物。明徳は、幕末には長崎で蘭学を学び、文久の第一次遣欧使節には伯父柴田貞太郎に従い渡欧。その後大砲差図役頭取となる。鳥羽・伏見の戦いで負傷。沼津兵学校につとめた後、明治3年大阪兵学寮に転出し、以後、近衛砲兵第一大隊長・陸軍省第三局第一課長・砲兵局人事課長・教導団次長などを歴任し、中佐で退役。育英黌(現東京農業大学)黌長・東京市会議員などにもなり、明治37年没。

 

万年 千秋 まんねんちあき(三等教授方)

天保4年幕臣万年三郎兵衛の子に生まれる。幕末には、講武所の砲術教授や砲兵頭をつとめ、天狗党の乱鎮圧などで戦功をたてた。後に明治政府に出仕し、砲兵少佐となった。明治40年没。隠岐守・鎮太郎・精一とも称した。なお、西周や赤松則良とオランダヘ留学した内田正雄は、万年の実弟にあたる。

 

黒田 久孝 くろだひさたか (三等教授方)

弘化2年生まれ。旧名久馬介・久馬。兵学校の兵部省移管とともに政府に出仕し、陸軍兵学寮大助教や陸軍士官学校教育副部長などをつとめた。西南戦争や日清戦争にも従軍、特に日清戦争では第一軍の砲兵部長として戦功をあげた。明治30年には中将となった。さらに東宮武官長の栄職に挙げられ、男爵を授けられた。明治33年没。

 

天野 貞省(三等教授方)

天保6年幕臣天野雄之助の子に生まれる。鈞之丞・鈞とも名乗った。幕末には、講武所で砲術を学び、歩兵頭並・砲兵頭などをつとめ、戊辰戦争では上総国に脱走して官軍に抵抗しようとしたこともあった。兵学校の兵部省移管とともに政府に出仕し、教導団や陸軍士官学校の教官として、特に工兵科の人材を育成した。工兵中佐となり、明治39年没。間宮信行とは義兄弟の関係。

 

揖斐 章 いびあきら (三等教授方)

弘化元年に江戸に生まれる。初名吉之助・政明。講武所に学び、幕府陸軍の士官となる。鳥羽・伏見の戦いでは、歩兵差図役頭取として負傷、その後歩兵頭並・撒兵頭並となる。沼津兵学校就任直後、早くも政府から徴命を受け、大阪兵学寮に赴任した。西南戦争では参謀として活躍し、明治13年には陸軍少将・名古屋鎮台司令官となった。明治14年没。

 

 

中根 淑 なかねきよし (三等教授方)

天保10年江戸に生まれる。初名逸郎、香亭と号す。幕末には、幕府陸軍の士官をつとめ、榎本武揚艦隊に乗り箱館に向ったが、船が銚子沖で難波したため、目的を果せず、まもなく沼津に移住した。兵学校では漢学を教え、後には附属小学校の頭取にもなった。兵学校廃止により上京、陸軍参謀局に出仕し、『兵要日本地理小誌』を著わした。

その後野に下り、漢文学者として活動、全国を漫遊し、多くの著書を刊行した。大正2年興津で没した。

 

石橋 好一(三等教授方)

旧名鎗次郎。幕末には、開成所教授手伝並出役などをつとめていた。兵学校ではフランス語を担当。兵学校の兵部省移管により陸軍兵学中助教となったが、その後の経歴は不明。写真のほかにも、『小児養育談』などの訳書がある。

 

神保 長致(三等教授方)

天保13年江戸の幕臣の子に生まれる。初名寅三郎。幕末には騎兵差図役勤方などをつとめ、フランス留学の候補者にもなった。沼津兵学校では、最初第1期資業生になったが、優秀なので三等教授方に抜擢された。その後陸軍兵学寮や士官学校の数学教授をつとめ、『算学講本』『代数術』などを刊行した。明治43年没。長男小虎は東京帝国大学教授・理学博士で地質学・鉱物学の権威、三男格も東京文理科大学教授で言語学者であった。

 

園 鑑(三等教授方)

旧名鑑三郎。幕末には、蕃書調所英学世話心得・開成所教授手伝並出役などであった。服装や身なりに無頓着で、天心燗漫な性格が生徒たちから愛されたという沼津兵学校時代のエピソードがある。後年は判事になった。

 

高島 茂徳(三等教授方)

旧名四郎兵衛・四郎平。幕臣福田重固の弟で、幕末の砲術家高島秋帆の養嗣子となった。沼津兵学校では英語を担当していたが、詳しい前歴は不明である。その後政府に出仕し、陸軍少佐で熊本鎮台の参謀長に在職中、明治10年神風連の乱で叛乱士族の襲撃をうけ、種田政明少将らと戦死した。洋式軍制の先駆者としての高島秋帆の役割を想起するとき、茂徳の死は運命の皮肉といえる。

 

山本 淑儀(三等教授方並)

旧名誉五郎。元治元年の10月に開成所蘭学教授手伝出役に任命され、慶応2年ころは開成所筆記方をつとめていた。また、慶応310月にはイギリス軍事顧問団による海軍伝習の翻訳掛に任命された。沼津兵学校廃止以前に上京し、明治3年には海軍大得業生であった。海軍大佐となり、明治38年没。

 

榊 緯 さかきゆたか (三等教授方並)

文政6年生まれ。令輔・令一とも名乗り、篁邨と号す。幕末には、杉田成卿から蘭学を学び、伊勢国津藩(藤堂家)に仕官する。安政5年蕃書調所活字御用出役を命ぜられ、幕府に仕える。蕃書調所では、市川斎宮とともに活版印刷技術を研究し、後にスタンホープ印刷機が沼津兵学校に運ばれた際は、それを操作したらしい。沼津から上京後は、海軍省・地理寮・修史局などに奉職し、明治27年没す。洋画家でもあり、渡部温の『通俗伊蘇普物語』に挿絵を描いたりしている。

 

杉 亨二 こうじ (員外教授方)

文政11年長崎に生まれる。初名純道。大坂の緒方洪庵や江戸の杉田成卿の門に入り蘭学を学ぶ。勝海舟の知遇を得、その推薦で老中阿部正弘に仕える。やがて蕃書調所に出仕し、その教授をつとめた。維新後は駿府に移住し、藩首脳に政表(統計)調査の必要を訴え、明治2年に沼津と原で我が国最初の近代的な戸口調査を実施した。また静岡学問所でも教鞭をとったが、明治2年末には沼津兵学校員外教授方に転じ、やがて二等教授方となった。明治4年に政府に出仕、以後左院・太政官・統計院などで統計調査・戸籍調査を推進した。明治15年には共立統計学校を設立して、一層の統計学普及につとめた。また、明治初期には明六社のメンバーとしても活躍している。大正6年没。我が国統計学の始祖、国勢調査の先唱者として知られる。

 

榎本 長裕(三等教授方並)

旧名徳次郎、兵学校時代は附属小学校の教授も兼任していた。その後、東京の陸軍兵学寮や士官学校の数学教授をつとめ、数学書も幾つか著わした。

 

山田 昌那 やまだまさくに(教授方手伝)

嘉永元年幕臣山田忠五郎の子に生まれる。旧名清五郎。幕末には幕府海軍の士官であり、榎本武揚艦隊に参加し箱館へ脱走したが、乗船が難波したために途中で官軍に捕われた。その後沼津兵学校に招かれた。明治3年には早くも明治政府に出仕し、海軍兵学寮大得業生となった。さらに開拓使や札幌農学校に奉職したが、途中実業界に転じ、赤松則良や渡部温の協力を得て、明治20年に東京製綱会社を設立した。以後同社の支配人・専務取締役・会長などをつとめ、大正15年に没した。数学に長じ、『小学幾何画法』『小学対数表』『小学幾何初歩』などの編訳書がある。

 

熊谷 直孝 くまがいなおたか (教授方手伝)

旧名次郎橘。嘉永3年奥医師熊谷弁庵の子に生まれる。最初医学を学び、途中叔父栗本鋤雲の勧めで横浜語学所でフランス語を学んだ。沼津兵学校を去った後、明治4年横須賀造船所に奉職した。同5年にはフランスに留学し、物理や化学を学び、帰国後は造船大師・造船所編纂掛・学舎長などを歴任し、さらに海軍造船工学校・海軍機関学校・海軍造船工練習所などで教鞭をとり、造船技術教育に大きく貢献した。沼津兵学校の教授としては最も長命で、昭和17年に亡くなっている。

 

川上 冬崖 かわかみとうがい (絵図方)

本名寛、旧名万之丞。文政10年信州に生まれる。江戸で四条派の画家に学び、やがて幕臣川上家の養子となる。蕃書調所に入り、西洋画法の研究をはじめ、文久元年画学局が設置された際には、画学出役となった。明治元年12月には早くも明治政府に出仕し、従って沼津兵学校には僅かな期間しか在勤しなかった。最初大学南校や文部省に出仕し、後に陸軍省に移った。その一方、自宅に洋画塾聴香読画館を開き、小山正太郎・松岡寿・川村清雄ら多くの洋画家を養成した。川上は、明治初期洋画界の指導者として美術史上にその名を残した。また、陸軍では、士官学校図画教授掛や参謀本部測地課長をつとめ、洋画の技術を製図や測量などの軍事技術に応用した。明治14年、測地課長時代に熱海で自殺。横須賀軍港地図紛失事件の責任をとったといわれているが、その死は謎に包まれている。

 

佐野 照房 さのてるふさ(喇叭方教授)

旧名佐金吾。兵学校廃止後も沼津に残り、明強舎やその平町分教場の訓導をつとめるなど、小学校の教師となった。大正初年には沼津の日枝神社の神官となっている。大正8年没。