「日本の近代遺産50選」

2:琵琶湖疎水

「 湖水を京へ! 若き技師の挑戦 古都復興の活力に」

 緑豊かな京都東山の山麓(さんろく)。その谷間に小ぶりながら瀟洒(しょうしゃ)な煉瓦(れんが)建築がある。「御所水道ポンプ室」という。琵琶湖疎水の水を御所に送るため一九一二(明治四十五)年にできた。


 ここで汲み上げた水をポンプで背後の山に設けた貯水池に蓄えた。御所の紫宸殿(ししんでん)棟上より四十b高く四`先の敷地まで十分な水圧で送水・消火できる仕組みだ。

 御所の防火施設とあって建設は入念に準備された。用水の基本設計は田辺朔郎(さくろう)、ポンプ室の建屋設計は片山東熊(ともつくま)があたった。田辺は二十余年前に琵琶湖疎水を完成させた英雄的技師で、東京、北海道などに赴任した後、第二の故郷で京都帝大教授に迎えられていた。片山は京都、奈良の国立博物館や東京の迎賓館(旧東宮御所)を手掛けた宮廷建築家である。

 ポーチや円柱付きのバルコニーを配したネオルネサンス風のつくり。足もとでは新旧二筋の疎水が洞門を流れ出て合流、美しい景観を作っている。

 

 日本人だけで完成

 琵琶湖疎水は琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水した水はトンネルをくぐり、山科山麓を走りぬけて京都・粟田口の蹴上(けあげ)に出る。

 明治維新で東京へ遷都されると「千年の都」は深刻な地盤沈下に見舞われた。人口が減り産業も衰えた。これを憂いた三代目府知事の北垣国道は疎水建設を再生復興の足がかりにしようと考えた。琵琶湖と京を水運で結ぶ横想は平清盛のころからあり、江戸時代にも企画する者がいた。

 陳情に上京した北垣は北海道開拓使時代に知った工部大学校(東大工学部の前身)校長の大鳥圭介に相談した。大鳥は即座に学生だった田辺を紹介した。田辺が卒論で「琵琶湖疎水計画」をまとめていることを知っていたのだ。

 北垣は元過激な尊王派、大鳥は戊辰戦争で箱館まで転戦した旧幕臣、田辺は江戸育ちの学者の家系。それぞれ出自は異なるが建国の意気に燃えていた点で共通する。四十六歳の北垣は弱冠二十一歳の田辺をプロジェクトリーダーに抜擢(ばってき)、巨額の予算をつけた。市民にも税による負担を求めたので怨嵯(えんさ)の声が上がった。 コストを抑えるためにお雇い外国人は使わなかった。最大の困難は長さ二・四`、日本で最長のトンネル掘削だった。多くの殉職者を出した難工事は、竪坑(たてこう)を採用した田辺の創意工夫で着工から五年後の明治二十三年に開通した。

 

 初の水力発電所

 田辺は土木技師として優れていただけでなく先見の明があった。当初は水車動力の活用を目指したが、米国で水力発電が実用化したことを知り、発電所に計画を変更した。日本で最初の商用発電が疎水の完成と同時に始まった。電力は京都の街に灯(あか)りをともし、これも日本初の路面電車を走らせた。

 インクラインと呼ぶ傾斜鉄道で三十石船をそのまま台車に載せ運河間を移動する動力にもモーターを使った。日本海の荷を琵琶湖を経て淀川経由で大阪湾まで運ぶという舟運ルートが完成した。

 陸上輸送の進歩でインクラインは戦後間もなく廃止となるが、上水道としての疎水はいまも立派な現役である。京都市の上水道の九六%をまかなっており、市民はいまだ渇水の苦労を知らない。

 疎水は思わぬ恵みももたらした。水車計画が実行されたら工場群が建つ予定だった疎水の周辺には、導水庭園を持つ豪壮な屋敷が立ち並んだ。南禅寺を経て銀閣寺方向に北上する疎水沿いの道は花木が植えられ「哲学の道」の愛称がついた。遊歩道は沿道の名刹(めいさつ)とあいまって古都の観光資源に大化けした。

 明治の時代、壮年知事と青年技師の出会いで実現した公共事業は、時をふるにつれ、ますますありがたみを増している。(文・名和 修)

(日経平成20515日「明治。大正・昭和の足跡を訪ねて」)