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沼津市立第一小学校の明治時代の歴史 1明治元年9月 代戯館(明治元年9月12日開校:添地二十五番長屋の一棟:亀里樗翁館長) 2 明治元年10月 代戯館 片端六番五番小呂に移る(科目 素続、手習、洋算) 3 明治元年12月8日 徳川家兵学校附属小学校開校(仮校舎として三の丸太鼓門前の多聞)(寺子屋平机式)(蓮池新十郎頭取)(赤松大三郎、附属小学校掟書起草、新小学校校舎設計始める) 4 明治3年1月 静岡藩小学校と改称 5 明治3年4月1日 丸馬出門外片端(今のボールビルPあたり)に兵学校一等教授赤松大三郎の設計により洋風瓦葺き2階建て新築し、城内太鼓門前仮附属小学校舎から移る。(建坪150坪、教室数12室、高机腰掛式、新設備。別棟女子生徒専用) 6 明治4年11月 沼津小学校と改称(中根淑頭取・鈴木五一頭取)(片端) 7 明治6年1月 城内町々立小学集成舎と改称【正則(小学)・変則(中学)】(変則に外人教師招聘、最初米人グッドマン品格無しで解雇、次ぎに英人クーリング教養あり生徒に慕われた。)(当時頭取年俸二百円、普通教師年俸七十円、外人教師年俸二千四百円) (片端) 8 明治6年7月 本町・上土・三枚橋町立明強舎創立(集成舎は城内方面学区、明強舎は本町、上土、三枚橋を学区する)(場所は下本町清水本陣宅) 9 明治9年 集成舎(山田大夢校長)(片端)から変則科を分離、沼津中学校(校長江原素六)が創立。変則科生徒沼津中学校へ編入。 (沼津中学校は旧駿河銀行大手町支店あたりに、総工費一万円で洋風二階建、石造り、寄宿舎、外人教師用洋風住宅が完備されたものだった。)(明治14年4月寄宿舎より出火、全焼し、貴重な兵学校関係の書物を焼失。外人教師用住宅が類焼を免れたので、修理して教室として授業を再開)(明治17年4月県立となるが、明治19年7月県内の中学校が統一され、沼津町学校は廃校となる) 10 明治10年 「第49番及第53番聯合区小学」として明強舎類焼により集成舎と合併。(片端) 11 明治11年6月 小学沼津学校(沼津黌)(本丸跡)(校長山田大夢)(合併により手狭になり、総工費五千円にて、旧沼津城本丸跡に校舎新築)明治11年6月15日開校式、徳川慶喜揮毫の「沼津黌」を賜る。 12 明治13年12月 城内町公立小学集成舎(後集成舎)(添地) (今、小林Pあたり) (集成舎は添地の馬場跡私有地300坪を借用し、戸庁役場と共同で校舎新築。木造平屋建112坪、内12坪役場使用)(集成舎・明強舎・三枚舎分裂、小学沼津校の施設は全部沼津治安裁判所に譲渡、町方町の従来の裁判所を明強舎用に買い取り、敷地の下付けを受けた。) 13 明治14年 駿東郡第一学区町立小学集成舎と改称(添地) 14 明治19年7月 公立沼津黌(町方)三舎合併 15 明治19年12月 駿東高等小学校(旧沼津中学校跡)公立沼津黌上級生編入 16 明治20年1月 尋常沼津黌と改称(町方)(間宮喜十郎校長) 17 明治20年10月 公立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長) 18 明治25年5月 町立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長) 19 明治30年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等4年) (鈴木忠平校長)(八幡) 20 明治34年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等2年) (野方正作校長)(八幡) 21 明治34年4月 町立沼津女子尋常高等小学校(野方正作校長)(八幡) (昭和3年3月まで八幡)(昭和3年4月沼津市立第二尋常小学校) 22 明治41年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常6年・高等2年) (永田金作校長)(八幡) 23 大正12年7月 市立沼津尋常高等小学校(尋常6年・高等2年) (中村善作校長)(八幡) 24 昭和3年4月 沼津市第一尋常小学校(尋常6年)(臼井多聞校長)(八幡) 25 昭和16年4月 沼津市第一国民学校(初6年)(外岡千代蔵校長)(八幡) 26 昭和22年4月 沼津市立第一小学校(6年)(一杉房吉校長)(八幡)
新しい文化の地に 徳川藩が沼津へ移住 一八六八年九月八日、慶応が明治に改元されてから一九六八年のことしは、明治百年にあたる。明治百年を逆コースにもっていってはならないが、郷土百年の歴史を、この機会にふりかえってみるのは、無意味なことではなかろう。国内重要事項と合わせて、古い歴史のフイルムの駒を映出してみょうーー. ◇慶応四年(明治元年) ○徳川亀之助(のちに家達)が、領地高七十万石で、駿府城主をおうせつけられた。その知らせが、沼津水野藩にあった。(五月二十四日) ○沼津藩主水野出羽守、戸田日村へ移る(七月二十一日) ○徳川亀之助が駿府に封着(八月十五日)水野忠敬が領内郷村を徳川氏に引渡す(三十一日)その時の沼津藩家臣団はつぎのようであった。 沼津在住は、侍小屋百五軒、惣長屋五十六棟、世帯三百八十五軒、人数男千百八十一人、女千百八十八人。江戸在住は、世帯九十七軒、人数男百七十人、女百五十六人、総計二千六百九十五人。 ○徳川藩が沼津在住を完了した(九月) ○代戯館が開設ざれる(九月) ○徳川藩の職員構成が成立。 O西周が徳川兵学校頭取に命ぜられる。(十月) ○徳川家兵学校頭取以下各教授方の正式任命が発令される(十一月) ○沼津勤番組の組織ができる。 ○西周が兵学校付属小学校掟書三十一条を定める。 ○代戯館を徳川家兵学校付属小学校に引きつぎ、開校.沼津城内西南隅外堀沿いの建物を改造して使用する。(十二月八日) ○徳川家兵学校開校掟書八十四条を選定。校舎は沼津城二の丸旧城主水野邸を使用する。 ◆この年は、一月に鳥羽伏見の戦いがあり、三月に五力条の誓文が発布され、四月に江戸開城、五月に彰義隊を上野で討伐し、七月に江戸を東京と改称、九月に明治改元、会津藩降伏、十月に東京が都になった。 ○明治二年 ○徳川家兵学校付属小学校が授業を開始した。(一月八日) ○徳川藩内十一カ所に奉行所が設置され、沼津にも奉行、添奉行が配置された阿部邦之助が沼津奉行となった。(十三日) ○水野出羽守が上総国菊間へ帰国した。 ○徳川家兵学校付属沼津陸軍医学所が西条町に開設された。杉田玄瑞が陸軍医師頭取となる。(三月) ○版籍奉蓮により、徳川藩藩主徳川家達が静岡県藩知事に任命される。(六月十七日) ○駿州府中を静岡と改称する。(二十日) ○徳川家兵学校を沼津兵学校と改称(八月) ○沼津陸軍医学所を沼津病院と改称。・ ○奉行制を廃止し、郡制市役所が設置(二十六日) ○沼津商社会所が金融業をかねた回漕店として設立(月日不祥) ◆この年は、五月に榎本武楊が降伏し、六月に版籍が牽還された。 ◇明治三年 ○郡制方役所が郡方役所と改称された。(二月二十八日) ○静岡藩小学校掟書が制定される。徳川家兵学校付属小学校を静岡藩小学校沼津学校と敬称(三月一日) ○沼津兵学校で兵学程式三巻、仏蘭西式歩兵程式二巻ほか数種の教科書を出版した。 ○沼津兵学校付属小学校が、沼津城丸馬出門外の一画片端に洋風瓦ぶき二階建ての新校舎を新築、落成した。(四月) ○沼津城内二重やぐらの一角から火を発し、兵器弾薬を灰にしてしまった(六月) ○西周が沼津兵学校頭取を辞して上京す。(九月二十日) ○塚本桓甫が沼津兵学校の頭取に、大築保太郎が同教頭となる(十一月三十日) ◆この年は三月に集議院が開設され、九月に平民に苗字が許された。 ◇明治四年 ○通横町の伝馬所で、郵便事務が開始された。荻生居十郎が取扱役になる。(三月一日) ○廃藩置県にともなって徳川家達が東京へ帰る。(八月二十八日). ○商社会社が廃止され、産業所会所が浅間町に設立された。(九月) ○沼津兵学校が兵部省の管かつになる(二十七日) この年の十二月十六日付で兵部省へ進達された兵学校人員は、江原素六杉享二以下役員四十六人.資学生百七十三人、俗事四十二人であった。 ○知事は県令と改まる。(十一月二日) ○廃藩置県により駿河国一円は静岡県となり、沼津地域は静岡県に編入される(十五日) ○大久保忠寛が静岡県参事となる。(十五日) ○県治条例が定められる(二十七日) ○静岡藩小学校沼津学校を、沼津小学校と改称。 ○浅野氏砧が大久保忠寛に代わって、静岡県参事となる。(十二月九日) ○沼津兵学校が廃校されて兵部省直属となり、沼津出張兵学校と改称される。(十二月十六日) ○東海道各駅伝馬所が廃止される。各付属助郷を解除。 ◆この年は、四月に戸籍法が布告され、五月に金本位制が採用、七月に廃藩置県となる。また三月一日に郵便切手が発売され、郵便箱がはじめて設けられた。 「沼朝昭和43年12月21日(水曜日)号」
「沼津兵学校と関係深い福井藩」(沼朝平成21年5月24日(日)記事) 史談会総会で熊澤恵里子東農大教授が講演 多額の藩費使い藩士送る 藩内改革、教育課程に多大な影響 沼津史談会(四方一瀰会長)は総会を市立図書館視聴覚ホールで開催。議事終了後、「沼津兵学校と福井藩」をテーマに東京農業大の熊澤恵里子教授・の講演を聴いた。熊澤教授は早稲田大卒、同大大学院博士課程を修了し、幕末維新期における教育近代化などを研究している。 自己紹介で熊澤教授は、「江戸の末期から明治のはじめ、封建社会から近代社会へ移る時の教育の変革を研究し、福井藩と沼津藩の関係を調べている。幕府の教育機関を研究するうちに徳川家が静岡に移り、その後どうなったのかに興味を持ち、沼津兵学校にたどり着いた」という。 兵学校について「先進的な教育内容もさることながら、他藩の遊学生を受け入れ、他藩の学生を育てた」ことを特徴として挙げた。 一方、「自藩の学生を送り込んで自藩の建て直しを図った藩で、一番多くの遊学生を送り込んだ」福井藩について、沼津兵学校が看板を下ろした明治四年以後、福井に帰った人、あるいは東京などに出て活躍した人など多くの歴史的人材が輩出したことを指摘。福井県出身者に博士号取得者が多いという話から「そのルーツが沼津兵学校に求められることは、あまり知られていない」とした。 福井藩十六代藩主の松平慶永(よしなが=号・春嶽)は逸材を登用し、藩政改革、藩校改革に取り組んだ人物。登用された人達が、教育改革でどのように活躍したかなどは歴史研究者の間では話題になっても「誰も沼津との関係は取り上げていない。(そのため)教育の近代化過程における沼津と福井との関係で研究に取り上げてきた」という。 熊澤教授は、大学院修士課程では、幕府の教育機関と沼津兵学校について、その関連性を含めて論文を書いたが、この過程で明治史料館の樋口雄彦学芸員(当時。現・国立歴史民俗博物館総合研究大学院大学准教授)に世話になったという。 修士論文以降は、もっぱら福井藩の方の研究にかかりっきりになり、沼津とは縁遠くなった。 沼津兵学校については、「四方会長、樋口先生以上のものはできない」と話し、福井藩とのかかわりの中で教育の近代化を解明しようと努めている、という。 福井藩の藩政改革や藩校改革について、「福井藩は幕府に疎んじられ、政局が安定していない中で進取の意気を貫いた。函館戦争では諸藩預かりとなった人を厚遇した」とし、藩校改革について「大きな藩費を使って藩士を沼津兵学校に送り込んだ。西周の学校観が春嶽の学校観に一致していた。藩校改革に影響を与えた」と説明。春嶽は西を「兵学の師」と仰いでいたという。 幼いの頃から春嶽につき教育の主導的立場だった側用人の中根雪江(なかね・ゆきえ)も春嶽の師と言える立場だったようだ。 春嶽は、藩主となった天保期当初、藩政は上級藩士主導による改革が行われていて藩主といえども急激な藩政と藩校改革はできなかった。 藩全体が倹約ムードで、安政期には藩財政に由利公正(ゆり・きみまさ)、教育改革に橋本左内(はしもと・さない)を登用し、教育では私費、藩費の遊学の規定が決められるなど改革ムードが生まれる。しかし、安政五年(一八五八)の大獄で、橋本左内が死罪、中根が辞職して藩政改革は窮地に追いやられる。 文久元年(一八六一)に中根が復職し、同二年に春嶽が政治総裁職に就任。由利の記録によれば藩の財政は経済的に豊かだったが、どのぐらいの蓄えがあったのかは分からない、という。 文久から慶応期にかけて、倹約策から富国策へと政策転換が行われ、遊学が盛んに行われるようになる。ただ、春嶽に招かれ藩政改革を指導した横井小楠(よこい・しょ うなん)と西周の流れの藩士達とは、グループが異なり、いわゆる派閥のようなものがあった、という。 教育改革は明治期に入るとさらに強化され、八歳以上での就学が徹底されるようになる。明治初期に福井藩学校規条が作られるが、「内容的には沼津兵学校のカリキュラムを取捨選択したものだろう」と熊澤教授。 「沼津兵学校と違うのは『中学校』という名が出てくること。春嶽はヨーロッパの小・中・大学(プロイセン=ドイツの学校体系)を知り、小・中学校が福井に設置されることになったのだろう。現在の小・中学校とは全然違う。年齢的にも全く異なる」と説明。外塾が十二歳までで、十二歳から小学校、十七歳から二十歳まで中学校だったという。 一方、沼津兵学校に遊学し、福井藩に戻ってきた人には理数系の教師になった人が多かった。しかし、福井で理数系が優秀だと言われて兵学校に遊学しても、沼津での試験の成績は思うようでなかったとの話が伝わっていて、熊澤教授は「沼津(兵学校)はレベルが高かった」。 当時、遊郭から兵学校に通った学生もいたが、「それが分かると閉門(福井への帰還命令)となり、家族にまでお咎めがあった記録が残っている」という。 教科に関しては、「藩校改革の流れを見ると重視しているのは兵法や軍事技術。藩校における成績が重視され、自然科学系の学問を習得した人が藩に重用され、(学問を習得していれば)下級武士にも出世の道が開かれると聞いて下級武士の家で教育熱が上がった」と解説。 春嶽自身は非常に勉強熱心で、学問を教える人を招請したり、藩士を他藩へ遊学させたりと将来の目をもって投資していたが、「とりわけ沼津兵学校への遊学は成功した」。 兵学校について「学問体系が充実していた。とりわけ自然科学が充実していた。(慶応四年に出来た)慶応義塾はサイエンス(の学科)が明治十六年にようやく行われ(始め)た。自然科学系が軍事以外に活用され、有意義であることが、あまり分かっていなかったのかなと思っている」とし、慶応義塾を開いた福沢諭吉は長男をアメリカに送り、農学を勉強させようとしたが、農学にはサイエンスが必要であり、息子は農学から商学に専攻を変えたという。 慶応義塾におけるサイエンス新設はこのような背景があったようだとし、「沼津におけるきちんとした勉学体系が、当時としては、いかに画期的だったかが分かると思う」と指摘した。 福井では「普通の学」と呼んだ教育課程があったが、「普通」という名とは違い高度な内容で、習得できずにドロップアウトする人も多かったという。しかし、藩の仕組みとして、習得できない人は正規の出世を期待できなかったようだ。 この後、福井藩から沼津兵学校への遊学者の兵学校時代の数学のノートをスライドで上映。封(対)数計算のページを映し、黒板か他人のノートを間違って写したのか、「10g」が、どう見ても「boy」と書かれていることなどを紹介。「沼津で学んだものを持ち帰ったものが各地に残っている可能性がある」とした。 さらに、「維新期の諸藩の学校改革は、何らかの形で沼津との関連があったと思っているが、福井は特に関係が深かった」と指摘。 翻って「西周が兵学校を創設し目指したものが何だったのか。コモンサイエンスのコモンは市民という意味で、市民の学問ということ。これからは西が(兵学校を開校するにあたり)参考にしていたイギリスについて研究していきたい」と話した。
削除しました(管理人) 島田三郎(第4期)資業生 海軍将官のスキャンダル追及の先頭に立ったのは、野党・立憲同志会の島田三郎だった。島田は嘉永5年(1852年)の生まれ、10俵2人扶持という小禄の御家人鈴木智英の三男で、幕府の倒れたあと大蔵省付属の英語学校で勉強し、明治6年に「横浜毎日新聞」の翻訳係として入社した。ひところ江藤新平のもとで書生をしたこともある。 この新聞の社長は幕府の御用商人だった島田豊寛で、島田は文章のうまい鈴木三郎を養子に迎えた。ひところ立法機関の元老院に出仕したが、明治14年の政変で新聞に戻り、国会には第1回の総選挙から連続当選した。(三好徹著「政・財腐蝕の100年」より) 田口卯吉(第6期)資業生 田口は安政2年(1855年)の生まれで、家格は軽格の徒士だった。父の樫郎の死後は兄の貫一郎が家督を相続したが、翌年に死亡し、田口が満5歳で相続人となった。といっても、現実に徒士見習として勤務できるようになったのは元服(慶応2年.1866年)したあとである。もちろん、少年の身でそれが認められたのは、曽祖父が有名な儒学の権威だった佐藤一斎だったことや、姉の鐙子が家柄のよい木村熊二に嫁いでいたことも関係していたと思われる。 木村は但馬出石藩士の家に生まれ、幕臣木村家の養子となり、佐藤一斎や安積艮斎らに学び、18歳で聖堂助教となった秀才だった。だが、学者の道を選ばずに歩兵奉行の下に入り、京都取締役、歩兵差図役を務め、幕府が倒れたあとは彰義隊に加わった。 ただし、官軍との戦闘当日は糧食調達のために浅草蔵前へ出ていたために死なずにすんだ。実は田口も彰義隊に入ろうとして、木村にとめられた。元服したとはいえ満13歳の少年なのである。 勝てないとわかっている戦闘に参加させるのは忍び得なかったからだろう。木村はのちにアメリカに亡命し、キリスト教に入信して帰国後、明治女学校や小諸義塾を創設した。島崎藤村は教え子の一人である、田口はこの義兄の影響を大きく受けた。木村は京都時代に新選組の近藤勇や土方歳三とつきあいがあった。田口は維新後は医師を目指したが、生活のために明治5年に大蔵省の翻訳局に入った。月給6・円。そして2年後に11等出仕、判任官心得、月給30円。ノンキャリの最下位である。 明治に入ってからの旧幕臣の生き方は二通りである。榎本武揚や勝海舟、大鳥圭介のように藩閥政府に出仕する道か、記者とか教育者とか職業はさまざまでも、藩閥政府のめしは食べない生き方をするか、である。成島柳北、沼間守一、田口卯吉らが後者に入る。 田口卯吉は、母、祖母、姉を養うために下級の官員になったが、上司や同役の者に酒席に誘われても、つねに断った。旧幕臣の偏屈者と陰口されても、本人は平然としていた。そして、明治11年に役所を辞めると、その問に書きためていた「自由交易日本経済論」と「日本開化小史」を出版した。 田口は、これらの著作でも、「徳川幕府」ではなく「徳川政府」という表現を用いたし、尊擁派から大悪人に扱われた井伊直弼についても、「国家に大功ありというべし」と書いた。田口の著作は、岸田吟香、沼間守一らの言論人ばかりか、渋沢栄一のような経済人からも注目された。日本の古典だけではなく、ミルの「自由について」、スペンサーの「社会学原理」等、西欧の著作にも目を通しており、かつ、経済の重要性を説いていたからだった。渋沢もまた旧幕臣である。はじめは大蔵省に入って井上馨の下で働いたが、適当に切りあげて経済人として再出発した。渋沢は田口に声をかけ「東京経済雑誌」を出すことにした。月刊でスタートしたが、評判はよく、半月刊、旬刊となった。渋沢は反政府ではないが、基本的には自由経済の推進論者だったから、藩閥政府の三菱保護政策には反対だった。田口が、三菱への国庫補助を批判したときも、自由に書かせた。その一方で渋沢は、長州閥の井上馨とは仲がよく、共同運輸の設立にも関係した。ところが、社長が海軍の将官では、岩崎一族とは互角の勝負はできない。合併はやむを得ないとしても、気がついたときにはいつの間にか日本郵船は乗っ取られている。そこで田口にデータを与えて三菱のやり方を暴露したのだ。(三好徹著「政・財腐蝕の100年」より) |