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 新しい文化の地に 徳川藩が沼津へ移住

 

 一八六八年九月八日、慶応が明治に改元されてから一九六八年のことしは、明治百年にあたる。明治百年を逆コースにもっていってはならないが、郷土百年の歴史を、この機会にふりかえってみるのは、無意味なことではなかろう。国内重要事項と合わせて、古い歴史のフイルムの駒を映出してみょうーー.

 ◇慶応四年(明治元年)

 ○徳川亀之助(のちに家達)が、領地高七十万石で、駿府城主をおうせつけられた。その知らせが、沼津水野藩にあった。(五月二十四日)

 ○沼津藩主水野出羽守、戸田日村へ移る(七月二十一日)

 ○徳川亀之助が駿府に封着(八月十五日)水野忠敬が領内郷村を徳川氏に引渡す(三十一日)その時の沼津藩家臣団はつぎのようであった。

 沼津在住は、侍小屋百五軒、惣長屋五十六棟、世帯三百八十五軒、人数男千百八十一人、女千百八十八人。江戸在住は、世帯九十七軒、人数男百七十人、女百五十六人、総計二千六百九十五人。

 ○徳川藩が沼津在住を完了した(九月)

 ○代戯館が開設ざれる(九月)

 ○徳川藩の職員構成が成立。

 O西周が徳川兵学校頭取に命ぜられる。(十月)

 ○徳川家兵学校頭取以下各教授方の正式任命が発令される(十一月)

 ○沼津勤番組の組織ができる。

 ○西周が兵学校付属小学校掟書三十一条を定める。

 ○代戯館を徳川家兵学校付属小学校に引きつぎ、開校.沼津城内西南隅外堀沿いの建物を改造して使用する。(十二月八日)

 ○徳川家兵学校開校掟書八十四条を選定。校舎は沼津城二の丸旧城主水野邸を使用する。

 ◆この年は、一月に鳥羽伏見の戦いがあり、三月に五力条の誓文が発布され、四月に江戸開城、五月に彰義隊を上野で討伐し、七月に江戸を東京と改称、九月に明治改元、会津藩降伏、十月に東京が都になった。

 ○明治二年

 ○徳川家兵学校付属小学校が授業を開始した。(一月八日)

 ○徳川藩内十一カ所に奉行所が設置され、沼津にも奉行、添奉行が配置された阿部邦之助が沼津奉行となった。(十三日)

 ○水野出羽守が上総国菊間へ帰国した。

 ○徳川家兵学校付属沼津陸軍医学所が西条町に開設された。杉田玄瑞が陸軍医師頭取となる。(三月)

 ○版籍奉蓮により、徳川藩藩主徳川家達が静岡県藩知事に任命される。(六月十七日)

 ○駿州府中を静岡と改称する。(二十日)

 ○徳川家兵学校を沼津兵学校と改称(八月)

 ○沼津陸軍医学所を沼津病院と改称。・

 ○奉行制を廃止し、郡制市役所が設置(二十六日)

 ○沼津商社会所が金融業をかねた回漕店として設立(月日不祥)

 ◆この年は、五月に榎本武楊が降伏し、六月に版籍が牽還された。

 ◇明治三年

 ○郡制方役所が郡方役所と改称された。(二月二十八日)

 ○静岡藩小学校掟書が制定される。徳川家兵学校付属小学校を静岡藩小学校沼津学校と敬称(三月一日)

 ○沼津兵学校で兵学程式三巻、仏蘭西式歩兵程式二巻ほか数種の教科書を出版した。

 ○沼津兵学校付属小学校が、沼津城丸馬出門外の一画片端に洋風瓦ぶき二階建ての新校舎を新築、落成した。(四月)

 ○沼津城内二重やぐらの一角から火を発し、兵器弾薬を灰にしてしまった(六月)

 ○西周が沼津兵学校頭取を辞して上京す。(九月二十日)

 ○塚本桓甫が沼津兵学校の頭取に、大築保太郎が同教頭となる(十一月三十日)

 ◆この年は三月に集議院が開設され、九月に平民に苗字が許された。

 ◇明治四年

 ○通横町の伝馬所で、郵便事務が開始された。荻生居十郎が取扱役になる。(三月一日)

 ○廃藩置県にともなって徳川家達が東京へ帰る。(八月二十八日).

 ○商社会社が廃止され、産業所会所が浅間町に設立された。(九月)

 ○沼津兵学校が兵部省の管かつになる(二十七日)

 この年の十二月十六日付で兵部省へ進達された兵学校人員は、江原素六杉享二以下役員四十六人.資学生百七十三人、俗事四十二人であった。

 ○知事は県令と改まる。(十一月二日)

 ○廃藩置県により駿河国一円は静岡県となり、沼津地域は静岡県に編入される(十五日)

 ○大久保忠寛が静岡県参事となる。(十五日)

 ○県治条例が定められる(二十七日)

 ○静岡藩小学校沼津学校を、沼津小学校と改称。

 ○浅野氏砧が大久保忠寛に代わって、静岡県参事となる。(十二月九日)

 ○沼津兵学校が廃校されて兵部省直属となり、沼津出張兵学校と改称される。(十二月十六日)

 ○東海道各駅伝馬所が廃止される。各付属助郷を解除。

 ◆この年は、四月に戸籍法が布告され、五月に金本位制が採用、七月に廃藩置県となる。また三月一日に郵便切手が発売され、郵便箱がはじめて設けられた。

「沼朝昭和431221日(水曜日)号」






2013年03月31日 05時26分
藩内外に広がった沼津兵学校附属小学校の影響

「地方が最後の輝き放った時代」

 近代教育の先駆けとなった代戯館

 第10回代戯館まつり記念講演会が二十三日、沼津信用金庫本店四階ホールで開かれた。同まつりは十年の節目を迎え、今回の取り組みで終了する。

 掟書が他校規則の範に

 代戯館まつり 樋ロ雄彦教授が記念講演

 代戯館は、明治初年に現在の第一地区に存在した沼津兵学校の附属小学校で、第一小学校の前身。兵学校頭取の酉周(にし・あまね)が西洋の学校を参考にして制度を整え誕生したもので、藩校や寺子屋といった、それまでの教育機関とは異なる、我が国最初の近代的小学校として知られる。

 代戯館跡地近くの上本通り商店街の有志などで構成された代戯館まつり実行委員会では毎年、沼津信金本店横のぬましんストリートギャラリーを使って沼津兵学校と代戯館ゆかりの人々を市民に紹介してきた。

 最終回となる今回の記念講演では、国立歴史民俗博物館教授で元明治史料館主任学芸員の樋口雄彦氏が「藩内外に広がった沼津兵学校附属小学校の影響」と題して話した。

 樋口氏は、明治元年に作られた代戯館の設置規則「沼津兵学校附属小学校掟書」を取り上げ、その内容が他の学校にいかに影響を与えたかについて論じた。

 樋口氏は、掟書を通して見えることとして、庶民子弟の入学も許可するなど身分の壁を超えた学校であったこと、科目として武芸ではなく体操(体育)を取り入れたこと、教員による学校外での個人指導に制限を付けて私塾の気風を脱却しようとしたことなどが、それまでの教育機関とは異なり画期的だった、と説明。

 また、生徒が学校の備品を壊したら保護者に弁償させることや、素行不良の生徒については家庭の責任で「折橿(せっかん)」を加えること、頭取(校長)は生徒の賞罰についての権限を持っているが体罰は厳禁だったこと、といった規則があったことに触れた。

 掟書の各条文を解説した樋口氏は、掟書が他校の規則に与えた影響として、名古屋県(現愛知県)、印旛県(現千葉県)、宮崎県、鹿児島県などの小学校の規則を挙げ、これらの規則の中には代戯館の掟書の条文と類似していたり、同じ語句が使われているものが複数あることを指摘。明治五年に新政府が学制を発布し学校制度を整備するまでの数年間、代戯館の規則が日本各地の小学校の標準規則として機能していた、と結論付けた。

 代戯館の掟書が全国に広まった理由としては、兵学校と代戯館を設置した静岡藩(徳川家)が各地に人材を派遣する「御貸人」という制度を持っていたことや、沼津兵学校出身者が各地の地方役人として採用されたことなどが挙げられるという。

 最後に樋口氏は、各藩が高度な自治を行っていた江戸時代を「地方の時代」と呼び、明治元年からの数年間を「中央一極集中が始まる前の、地方が最後の輝きを放っていた時代」と位置付け、その時代に一地方に過ぎない沼津の学校が全国に大きな影響を与えていたことの意義を強調して講演を終えた。

 続いて聴講者からの質疑となり、代戯館では女子の入学も認められていたのか、との質問があった。

 樋口氏は、女子向け教育が行われていたと見る研究者もいるが、その確証となる一次史料は存在しない、とする一方、代戯館の分校だった沢田学校所(現金岡小)の明治四年以降の記録には女子が習う教科についての規則が残っていることを紹介した。

 代戯館まつりを終えるに当たり、上本通り商店街振興組合の長谷川徹理事長は「本町など他の商店街には江戸時代からの伝統があるが、上本通りの宝としては何があるか、という思いで始めた。はじめはわけがわからないまま手探りで、どうにか第一回に漕ぎつけた」と振り返った。

 代戯館まつりに携ってきた元沼津信金理事で沼津法人会専務理事の溝渕俊次さんは閉会のあいさつで、「百四十年前の沼津の地には先進性が宿り、全国に影響を与えていた。こうした理念は現在の沼津にも必要ではないか。また、もしできるなら、沼津兵学校の群像が大河ドラマで取り上げられたら」と述べた。

沼朝2013(平成25)331(日曜日)

 


2011年10月21日 12時34分

沼津城から沼津市大手町へ
 

 沼津城から沼津市大手町へ
「大手町
120年の歩み:平成231010日発行」

 樋口雄彦(国立歴史民俗博物館教授)

 はじめに

 現在の沼津市大手町の名称は、沼津城の大手門に由来するものである。大手町は沼津市の中心部に位置しており,沼津城が存在した時代から、沼津駅や諸官庁・学校・会社が置かれた近代、そして現代にいたるまでの変遷を記述することは、沼津市そのものの歴史をたどることとほぼ同じことになる。従って、それらの概要については『沼津市誌』『沼津市史』をはじめとする諸書に譲ることとして、この小稿では筆者の思い付くままの視点から、このエリアに関する諸々のテーマを自由に取り上げてみたい。

 

 沼津城のイメージ

 大手町はまさに、江戸時代後期に5万石の水野家・沼津藩の居城として築かれた沼津城があった場所である。それ以前、戦国時代から江戸初期にかけては、より広い範囲に三枚橋城が所在した。三枚橋城の時代.すなわち武田氏や大久保氏が支配した時代に、果たしてどれほどの城下町が形成されたのか否か、よくわからない。

ところで、良い機会なので、地元沼津で初めて公開する資料として、三重県の亀山市歴史博物館が所蔵する三枚橋城絵図4種を35ページに掲載しておきたい。これらは、亀山藩(藩主石川氏)の藩士天野家に伝来したもので、軍学を学んだ同家の人が描いた、全国の城の縄張り図の中に含まれるものである。4種とも従来から知られている、『駿国雑誌附図第二巻』(阿部正信編、吉見書店、1912年刊)掲載の「沼津古城の図」や間宮喜十郎『沼津史料』所収の図面(『沼津市史別編絵図集』掲載)とほぼ同じ構図であり、特に目新しいものではない。とはいえ、図の細部や書き込まれた文字などにも若干の違いが見られるので、後の参考までに紹介する次第である。

 さて、江戸時代の沼津城の姿は江戸時代の浮世絵に描かれているが、それらには写実性はない。一方、城郭の絵図や御殿の間取図、一部建物の立面図、維新期に撮影された写真などはわずかながらも現存し、当時の実相を垣間見せてくれる。明治以降の移り変わりについては、様々な古写真や各年次に陸地測量部その他によって作成された地図などから、城がなくなり市街地化していくようすを視覚的に把握することができる(たとえば石川治夫「地形図に沼津の歴史を見る」『沼津市史だより』第3号などを参照のこと)。そして、城の痕跡がまったく存在しない、現状へと続いてくるのである。

 嘉永6(1853)920日、江戸から遠州中泉代官に赴任する幕臣林鶴梁は、沼津城下を通過した際の印象を、「沼津城、手薄之様子、武風之衰、可咲也」と記している(保田晴男編『林鶴梁日記』第四巻、2003年、日本評論社)。あまりに粗末な城の構えを武風の衰えぶりを示していると嘲笑したのである。

 元治元年(1864)、幕府の御徒目付をつとめていた父の大坂赴任に同行し、沼津に宿泊した14歳の少年小野正作も、「沼津ハ水野家四万石ノ城下テ小サナ城郭ニ三重櫓力大手門ノ脇ニアリ如何ニモ玩具然トシテ見ヘタ」といった記述を後年の回想録に残している(『ある技術家の回想一明治草創期の日本機械工業界と小野正作一』、2005年、日本経済評論社)。沼津城はオモチャのような小さな城だったというのである。

 江川坦庵門下の砲術家として知られた沼津藩士三浦千尋を父にもち、後にキリスト教の牧師となった三浦徹は、屋敷が沼津城の外堀沿い「片端通」にあったため、巡視の目を盗み、よく飯粒を餌にして堀の鮒を釣ったという、少年時代の思い出を書き残している(「続続恥か記」『明治学院史資料集』第12集、1985)。沼津城のイメージは、厳めしいというよりも、何となくのんびりとした牧歌的なものだった。

 

 沼津兵学校があった時代

 維新後、沼津藩・水野家は転出し、駿河国全体が静岡藩・徳川家の領地となった。城郭としては決して堅固で大規模なものではなかった沼津城であるが、静岡藩内では駿府城に次ぐ拠点として位置づけられ、沼津兵学校が設置されることとなった。沼津兵学校そのものについて、ここで繰り返し詳述することはしないが、現沼津市大手町こそが、沼津兵学校の所在地であり、また多くの教授・生徒たちの居住地であったことは再確認しておきたい。

歴史上、この地がもっとも輝いていた時代であったと言ってもよいだろう。元沼津市立駿河図書館長の辻真澄氏は、「沼津の町の、あの小路から、この角から、毎日兵学校や附属

小学校に通う教授達や生徒達が、挨拶をかわしながら通り過ぎていったことでありましょう」、「当代一流の人物や、後になって名を成した一流人が(中略)実に華麗な世界を現出していたことになるわけで、何か不思議な想像の世界に遊ぶ思いがします」と表現しているが(『豆本沼津兵学校』、1985年、駿河豆本の会)、まったく同感である。

 沼津城の建物が沼津兵学校の校舎・施設にあてられたことは言うまでもない。二の丸御殿が教室になった。本丸(現在の中央公園)には生徒のための寄宿寮が建設された。二重櫓は兵器庫として使用された。沼津藩時代の鉄砲稽古所が兵学校の射的場に、郡方御役所・御勘定所が静岡藩沼津郡政役所にといった具合に、ほぼそのままの用途が引き継がれた例もある。兵学校当時の配置図は、資業生だった石橋絢彦によって作図され、雑誌『同方会誌』第38(大正4年刊)に掲載された。

 兵学校が存在した当時、すでに沼津城には少なからぬ改変が加えられていた。明治2(1869)9月、静岡藩庁は、静岡城(駿府城)を除く領内の城郭はすべて取り壊すとの方針を示した。すなわち、鯱も下ろし、門扉も取り外し、番所も取り払って通行を自由にし、櫓で打ち鳴らす太鼓も廃止し、以後は「何々城」ではなく「何々御役所」と称することとするとの布達を発したのである(『山中庄治日記』、1974年、沼津市立駿河図書館)。明治3(1870)頃、移住士族の屋敷番号を示すため木版色刷で発行された「沼津略画図」に、城の位置が「元沼津城」と表記されているのは、そのためであろう。天守や御殿など城の本体をすべて撤去するというわけではないので、解体は部分的なものにとどまったのかもしれないし、実際にどの程度まで実行に移されたのかもわからない。

 明治310月、静岡藩軍事掛(兵学校の管理部門)の職員であった高橋晋平・外川作蔵・山崎兼吉・芳村錠太郎・和田半次郎の5名は、城の堀を埋め立てて1町歩余の田として開墾したいとの願書を藩に提出し、許可されている。廃藩後の明治6年には高橋・和田・大野寛一の3名にその土地の払い下げが認可され、彼らは小作人を雇い稲作を行った(大野家文書)。こうして少しずつ城郭の形は変わっていったのである。

 

 沼津兵学校記念碑と駿東小公園計画

 沼津兵学校記念碑の建立が発案されたのは明治26(1893)8月のことである。「故沼津兵学校紀念碑建設及駿東小公園経営東照宮社殿修築ノ画策」という表題が付された活版の趣意書が印刷・配布された。「当時二雄視セラレ碩学博識ナル俊秀ヲ輩出」した沼津兵学校の栄光を不朽のものとするため記念碑を建てるとともに、その設置場所として駿東小公園を設定し、さらにその園内には東照宮の社殿を新築・移転するという目論見である。いわば、@記念碑の建立、A公園の設置、B神社の新築という複合計画であり、東京上野の「忍岡ノ大公園」(上野公園)を模したプランであった。駿東郡下の住民の憩いの場所となるばかりか、停車場に近いこともあり、「旅客及浴海者」にも集まってもらえることを想定していた。背景として、東海道線の開通、海水浴客の来遊、沼津御用邸の設置、大山巌・西郷従道らの別荘設置などがあり、沼津の町は益々の発展が期待されていた。発起者は西村鐵五郎、土肥高正、中村六三郎、山形敬雄、間宮信行、小松陳盛、江原素六の7名であり、特別賛成員には36名が名前を連ねた。36名中、20名は東京在住者であり、16名が駿東郡居住者だった。在京20名の内訳は、元沼津兵学校教授が西周・赤松則良・大築尚志・伴鉄太郎・田辺太一・渡部温・乙骨太郎乙・黒田久孝・平岡芋作・永持明徳・中根淑・山本淑儀・山田昌邦、元資業生が島田三郎・田口卯吉・矢吹秀一・成瀬隆蔵・石橋絢彦・真野肇・松山温徳。郡内居住16名の内訳は、旧幕臣が万年千秋、宇野三千三、河目俊宗、平民が和田伝太郎、足助喜兵衛、仁王藤八、市河篤造、荻生居十郎、鈴木安平、長倉誠一郎、長倉隆吉、渡辺平左衛門、渡辺治平、植松与右衛門、江藤舒三郎、川口与五郎。万年は元沼津兵学校教授でもあった。

計画では、東照宮に隣接する沼津兵学校練兵場の跡地約500坪、さらにその南北にある畑地約1,000坪を購入するために約2,000円、記念碑建設には約1,000円、東照宮社殿修築には約500円が見積もられていた。そして、翌27(1894)61日の東照公例祭日に合わせ遷宮・開園・建碑3式を同時に行うつもりだった。

 陸軍砲兵少佐井口省吾には261120日依頼状が届き、特別賛成員になることを了承し、翌年219日に寄付金5円を第三十五国立銀行沼津支店に払い込んでいる(樋口「井口省吾日記にみる同郷会とその活動」『静岡県近代史研究』第35号、2010)。なお、特別賛成員は井口を含め36名、その内訳は元教授が13名、元資業生が7名、元附属小学校生徒が1(井口)、その他旧幕臣が3名、地元平民が12名だった。一般の賛成員(醸金者)は全125名、うち元教授が7名、元資業生が55名、元附属小学校生徒が10名であった(『沼津市明治史料館通信』第28号掲載の一覧表を補正)

 しかし、この壮大な計画は実現に至らなかったようである。特別賛成員の顔ぶれに見るごとく、沼津・駿東郡の素封家・地主たちのバックアップもあったようであるが、目標とした金額が集まらなかったのであろう、完成したのは記念碑だけであった。明治29(1896)12月の決算報告によれば、石碑や鉄柵の建設費や謝礼・通信費などを含め、481円余が支出され、29円余が保存費として残されたことがわかる(石橋絢彦「沼津兵学校沿革()」『同方会誌』44)

 記念碑建立については、当時の新聞記事に以下のように紹介されている(『静岡民友新聞』明治27814日付)

 ●沼津兵学校紀念碑 沼津旧城内の東照宮を修繕し且つ公園を設け旧兵学校の紀念碑を建設せんとて有志者の奔走中なることは既に屡々報道せしが其計画は追々歩を進め篤志者の献金も巨額に達し紀念碑だけは此程竣工し去る七日盛んなる建設式を行ひしが此の碑の高さは十七尺にして篆額は徳川家達公、撰文は中根淑氏、書は大川通久氏にして中々美事なるものなりと尚ほ進んで宮社の修築、公園の開設に着手せん筈なりといふ石碑には明治279月と彫られているが、実際には8月に建ったわけである。なお、撰文を担当した中根淑(香亭)は、漢学者仲間の依田学海(元佐倉藩士)に草稿を添削してもらったらしく、依田の日記には「静岡学館旧址の詩文」を訂正し中根に返却したことが記されている(『学海日録』第九巻、明治27519日条)

 

 東照宮

 現在の城岡神社は、文政年間に第2代沼津藩主水野忠成の時、沼津城の守護神として奉斎された稲荷社を起源とする。その社は、江戸時代に描かれた沼津城絵図にも描かれている。ただし、江川文庫所蔵の沼津城絵図(整理番号15-2-2、描かれた時期不明)には、「稲荷」が3箇所(外郭・外郭内小廓・三ノ丸)、「天神」が1箇所(三ノ丸)、「山ノ神」が1箇所(外郭内小廓)に文字が記されており、もともと城内には複数の社が祀られていたことがわかる。

 廃藩後の明治6(1873)12月、廃城となった沼津城の建物がバラバラにされ、民間に払い下げされた際の入札物件の一つとして、「外郭稲荷社 但石灯籠共」とあるので(『沼津市史史料編近代1)、静岡藩・沼津兵学校の時代には東照宮ではなく、まだ「稲荷社」だったことがうかがえる。ただし、この時誰かが稲荷社を落札し、持ち去ってしまったというわけではないようだ。神社だけは残ったのである。

 沼津移住の旧幕臣たちがこの稲荷社に徳川家康を合祀し、東照宮としたのは明治7(1874)のことだったとされる(『大手町百年の歩み』)。駿府の宝台院に秘蔵されていた、二代将軍が「御入眼」した狩野某が描いた徳川家康像を譲り受け御神体としたともいわれる(石橋「沼津兵学校沿革())。沼津兵学校附属小学校の教授をつとめた永井直方の日記には、「東照宮様臨時御祭礼二付、金弐朱奉納」(明治7217)、「東照宮様江奉納御幕代割合金壱分三百十七文」(同年413日条)といった記載があるが(樋口「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記」『沼津市博物館紀要』231999)、鎮座当初のことであろうか。同じ日記には、「六月一日二日東照宮御祭礼二付休業」(明治9)、「寅六月一日東照宮御祭礼二付休業」(明治11)といった記述もある(「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記その二」『沼津市博物館紀要』262002)。また、奉納撃剣会などが賑やかに行われたようであり、東照宮の存在が地域へ定着していくようすがうかがえる。それは以下のように新聞に報道されている。少し長いが全文引用しておく。

 ○去る廿八日ハ当地城内町東照宮の臨時祭に付土肥高正三浦元由の二氏が願ひ人にて奉納せし野試合の景況を記さんに試合の場所ハ同町の中学校脇を用もちひ四方は増を結ひ繞らし入口にハ撃剣試合場と大書したる標札を掲げ東西の溜りにハ五色の幕を張り廻し紅白の旗ハ風に飜へりいと勇ましくぞ見へたりける出会人ハ同町撃剣場の取締世話かたを始めとして其他三島駅及び当市中よりも数人の飛入あり其姓名ハ大沢保守、室伏喜三郎、三浦元由、福井駒次郎、松村緑太郎、吉成清吉、中村直吉、中野矢太郎、川口金之助、吉田菊次郎、藤田鐵造、青木升三、本多徳磨、近藤周舊、本多鑑次郎、若山健正、佐藤徳右衛門、鈴木五郎太、南條近信、関口敬恭、秋元頼門、小野一信、八木岡鶴次郎、小浜則隆、黒田直與、建部伴之助、前田信利、周邦有、島田忠義、小松賢一郎、西島直治、三須東一、土肥高正、松村角次郎等にて又警察監獄両署よりハ阪本貞三、北島吉太郎、伊藤正邦、天野美保、飯田清綱、水戸部弥太郎、尾瀬田弥三郎、武井正次、今井重敏、藤岡磯吉、望月長秀、梶田義勝、松崎孝正、栗原宗継、鈴木高明、浅井達也の数氏にて都合五十名なり扠正面の桟敷には江坂警部補窪田郡長も臨場見物せられしかば午後より陸続見物人が出かけ中々の熱閙にて試合の初まるを今や遅しと待うちに三時三十分頃前の数氏は各鬮引にて源平の二組に分れ東西の溜りに控へたりかゝりしほどに打鳴す山家流の陣太鼓は螺貝の音ともろともにトウ〜として響きわたり一番二番三番の相図にしたがひ結束おしはやくも打出すかゝり太鼓にいさみにいさんで両陣より操いだしたる壮士等が間隔わずかになりしころ検見人の指揮につれ雙方ともに討出す竹刀と竹刀は一上一下隙を窺ふ虚々実々追つ返しつ入乱れ霎時勝負を争ふうち赤旗方が敗北せしかば白旗かたは一斉に凱歌唱へて引上たり暫らくあつて又第二回の試合を初めしが今度も赤の敗北にて白の勝となり第三回目は引分の勝負なし之にて野試合は畢り夫より一人宛の勝負となり十五回の撃合にて最初十一回は一本勝負のち四回ハ三本勝負なり此うち最も見物なりし立合ハ三浦元由氏と藤田鉄造氏の手合せ及ひ藤田氏と坂本貞三氏の試合にて何れも多年練磨の業術顕れたり又松村緑太郎氏は未だ十三年何ケ月の小童なれど一本勝負の時続けて二人に迄勝を得しはなか〜のお手柄なりし当日郡役所警察署よりハ酒井に赤飯を出会人一同へ贈られ一時見物人は頗る雑沓して殆んと立錐の地なかりし程にて之れが為め飛んた災難を請けしハ中学校寄宿所の賄方が丹精して作り置たし畑葱一枚を滅茶〜に踏荒されしは実に気の毒千万又夜に入て東照宮の社頭には例の中村小蝶の手踊り奉納あり諸商人も出余ほど賑かでありました(『沼津新聞』明治15101日付) なお、明治4(1871)の太政官布告によって制定された社格制度では、郷社が氏子調の単位となったが、静岡県第一大区七小区(沼津城内町・本町・上土町・三枚橋町)の郷社は日枝神社だった。そのため、明治9(1876)6月調査の「日枝神社氏子帳」(日枝神社所蔵)には、300戸以上の士族の氏名・番地・家族人数が記載されている。旧幕臣にとってみれば、東照宮こそが最も親近感を抱ける神社だったはずであるが、沼津東照宮はまだ誕生したばかりの小さな社にすぎなかったのである。

 ところで、江戸時代からあった久能山東照宮は別格として、静岡県内には維新後になってから新設された東照宮が沼津以外の土地にもある。各地に移住した旧幕臣たちが、幕府の開祖たる「東照公」(家康)を崇拝すべく勧請したのである。たとえば、遠州牧之原では、土着した旧幕臣らが明治10(1877)9月に東照宮を建立し、維新後江戸城内の紅葉山から久能山に遷座されていた6尺の徳川家康立像を納めている(大草省吾・塚本昭一『牧之原と最後の幕臣大草高重』、2000)。沼津の近くでは駿東郡元長窪村(現長泉町)の事例があげられる。同村に移住した旧幕臣は、当初は陸軍生育方、後に沼津勤番組の一部に編成された。町場から離れた山深い土地に長屋を建設し住まざるを得ない立場となった100世帯ほどの集団は、明治3(1870)417日に東照宮「遥拝所」を設け、結集の核とした。沼津の東照宮が城岡神社に改称したのは明治36(1903)のことだった。「お稲荷さん」(稲荷社)と「権現さん」(東照宮)という二つの呼び名があるのは不都合とされ、新名称に統一しようということだったらしい。

 

 歴代の住民たち

 戦国時代には甲斐の武田勝頼がこの地に三枚橋城を築いた。その後、松平康親、中村一栄らが城主となった。当然、城将・城主とその家来たちがここに住んでいたことになる。江戸初期には大久保忠佐が2万石の藩主として入ったので、やはりその家臣たちが居住したはずである。その後、三枚橋城は廃城となり、城跡は田畑と化した。一方、隣接する沼津宿は東海道の宿場町として発展し、近世を通じて商人・職人たちが住む市街地を形成した。安永6(1777)、水野忠友がこの地に城地を与えられ、沼津藩が成立した。かつての三枚橋城趾の上に新たな沼津城が築かれ、その周りには武士たちが住む屋敷や長屋が建設された。沼津藩が上総国菊間へ転出する直前の慶応4(1868)7月時点、沼津城下には「侍小屋」105軒、「惣長屋」56(385)があり、男1,181人、女1,188人、計2,369人が居住していたという(『沼津市誌』上巻)

維新後の徳川家の転入により、沼津城下にあった武家屋敷の住人は、それまでの沼津藩士(水野家家臣)から静岡藩士(旧幕臣)へと入れ替わった。沼津藩時代の沼津城下の住民の氏名は、文久3(1863)10月に栗原與助有功が作図した「駿河国駿東郡沼津御城地壱分一間積絵図」に記されている。静岡藩時代の住民は、明治6(1873)頃作図の「沼津城内原図」(沼津市明治史料館所蔵)に記入されている。両者を比較すれば、各家屋の住民の移り変わりを知ることができる。ただし、問の10年間にも居住者に異動があったはずである。具体例を出せば、沼津兵学校頭取西周が住んだ片端十九番小呂は、以前は沼津藩士森源吾が住んでいた家である。しかし、西は明治3(1870)に上京したため、その後居住者が変わったらしく、明治6年頃の絵図には160番という番号を付された上、区画が二分割され、加藤元吉・千田泰根の名が記されている。

 もちろん膨大な数の移住者によって引き起こされた住宅難はよく知られたところであり、沼津城下の屋敷・長屋に入れた者は幸運であり、多くは町内の商家や郊外の農家・寺社などに間借りをせざるを得なかった。また、沼津城内に住んだ者であっても、「追手内元見張番所」を宿所とした兵学校資業生野沢房迪のごとく(樋口「沼津兵学校関係人物履歴集成その三」『沼津市博物館紀要』30)、本来は住居スペースではない建物に入居した例もあったのである。静岡藩は明治210月に布達し、大参事以下の役職者にはその地位に相当する敷地・建坪の役宅をあてがう方針を示した(『久能山叢書第五編』)。沼津兵学校在職者の場合、頭取は敷地300坪・建坪30坪・畳数40畳、一等〜二等教授方は250坪・25坪・30畳、三等教授方・同並は200坪・20坪・23畳、教授方手伝は長屋建坪10坪・10畳、などと定められたが(東京大学史料編纂所所蔵「幕臣井上家控十三」)、これはあくまで基準であり、実際に条件を満たした住宅を全員に支給するのは難しかったと思われる。

 明治4(1871)廃藩置県が断行され、封建的な身分制度も解消されていった。武士だけが集住したエリアだった沼津城下も、やがて少しずつ変貌していく。拠り所としていた藩を失った旧幕臣たちは、郷里である東京をはじめ、職を求めて各地へ散って行った。逆に平民が新住民として参入してくることとなった。

 明治12(1879)に施行された郡区町村編制法により、行政区画の上で沼津は城内町・本町・上土町・三枚橋町の4町とされた。城内町が、かつての沼津城と武家屋敷地であることは言うまでもない。明治15(1882)時点で4町の住民は以下のような構成であった(『沼津新聞』明治15313日付)。他の3町とは違い、依然として城内町は「士族の町」であったことがわかる。

 城内町 戸数303(うち士族268戸、平民35) 人口3,461人 寄留39

 本町 戸数967(うち士族23戸、平民899戸、明家45) 人口5,378人 寄留182

 上土町 戸数270戸 人口1,211人 寄留180

 三枚橋町 戸数177戸 人口913

 各町には戸長という首長が置かれ、町会議員が選出されたが、明治15年時点の城内町会議員は、宮内盛重、南條近信、大草善久、永峯就正、木田保次、中村武、西村鉄五郎、松井節義、近藤宗一・、土肥高正、岩佐勝、関口孝恭、松下鵠次郎、小山義範、三浦元由、西岡洗、青山利貞、竹内正斎、松沢知通の19名だった(『沼津新聞』151216日付)。その名前からして全員が士族であったことが明らかである。もちろん戸長の職も、木村亮・柏木義近・飯田弘など、歴代を士族がつとめている。

 明治20(1887)頃のようすを描いた「沼津北半之図」(原品大野家資料、『絵図が語る沼津の歩み』および『沼津市史別編絵図集』に写真収録)を見ると、沼津城址は一部の堀や土塁が残る一方、埋め立てられ田地に変わった堀もあり、新設された沼津駅からは南へと道路が貫通している。土地の所有者もかなり変わり、旧幕臣以外の地元有力者の名前も見受けられ、また郡役所・高等小学校・測候所・電信局・裁判所・監獄署・キリスト教会などが立ち並んでいた。同図には、渡部温・天野貞省・平岡芋作・榎本長裕・名和謙次・杉田玄端・高松寛剛・吉村幹・横地重直・窪田勝弘ら、沼津兵学校教授・生徒だった者の名前が少なからず残るが、彼らの多くは単に土地を所有しているだけで、実際には居住していなかったものと推測される。

 旧幕臣は少しずつ減っていく傾向にあったが、中には東京で仕事を続けながら本籍は沼津に置き、屋敷を維持したままの者もいた。中央で成功を収めた者が沼津に立派な邸宅を建てる場合もあったようで、沼津兵学校測量方から東京商船学校長となった中村六三郎は、明治20年代に沼津の「城内旧二之丸」に洋館を建設した。その偉容は、銅版画の鳥瞰図として印刷され『日本博覧図』に収録されているほか、写真も残されており(『沼津市明治史料館通信』第19号に掲載)、周辺には旧沼津城の堀跡らしきものも写っており、開発が進みながらもいまだ旧観を残していたことがわかる。

 国会開設の年、明治23(1890)617日時点での衆議院議員選挙人名簿では、沼津町で全59名の選挙人がおり、うち旧幕臣の士族らしき者は西安・樋田豊治・横川景山・中村武・間宮梅翁・万年千秋・小松陳盛・秋鹿見山の8名のみだった(日吉宗雄「選挙制度の充実過程 沼津市域内選挙人名簿の今昔」『沼津史談』第33)。まだ当時、沼津居住士族はそれほど減ってはいなかったと思われるが、多くの者は資産が乏しく選挙権を持っていなかったのだろう。

 大正4(1915)91日発行の『駿東郡県会議員名簿選挙有権者名簿』(相馬弥六編輯・発行)には、沼津町は本町・上土町・城内・三枚橋町に区分され、そのうち城内には151名の氏名が掲載されている。池谷忠道・飯田耕一郎・西村直温・西安・宇野秀吉・山中為成・松平勝種・小松賢一郎・秋鹿見橘など、まだ移住士族の氏名も見受けられる。ちなみに小松は元沼津兵学校附属小学校教授の生き残りである。しかし、他の多くは旧幕臣ではない新住民ではないかと思われる。仁王藤八・依田治作・間宮徹太郎ら沼津町内の別地域から移り住んだ地元有力者、名取栄一・室賀録郎・佐々木次郎三郎・鈴木幹・芹沢多根ら他県・他村から移り住んだ実業家・医師などである。すでに沼津城内町は「旧幕臣の町」とは言えなくなっていた。大正末から昭和12(1937)以前に作成されたと思われる『沼津幕臣会規約並会員名簿』(活版)によれば、全会員54名のうち、8名が沼津市城内町字添地町、7名が沼津市城内町字西條町、3名が沼津市追手町となっている。沼津幕臣会は後に沼津葵会と改称したと思われ、昭和14(1939)開催の沼津兵学校創立七十周年記念会の主催団体のひとつになった。昭和15(1940)4月の「沼津葵会々員名簿」(謄写版)には、全92名の会員が掲載されており、うち城内添地が8名、城内西条が5名、大手町が3名である。

 沼津市が謄写版で作製した昭和19(1944)度の「町内会役員名簿」によれば、大手町は町内会長小栗為助以下、副会長(庶務部長・経済部長兼)水口伝之助、健民部長板垣明治、指導訓練外川武重、軍事協力鈴木肇郎、青少年部長鈴木素介、防衛部長鈴木平、納税部長金子賢二、会計部長大村松江、水道婦人部長高村勇となっていた。また町内は一から二十までの組に分かれ、それぞれの組長は板垣明治、大橋規一、関根茂、杉崎九三、海野清、芦川勝郎、鈴木平、真田治男、松岡勇三、深沢房次郎、水口伝之助、佐藤芳太郎、久米義雄、羽野義雄、平井光雄、向後昇太郎、植松信太郎、山崎秀雄、加藤時輔、吉邨勇という顔ぶれだった。たぶん、この中には旧幕臣の子孫はいない。

 そして戦後。住民の異動、町の変貌はさらに激しくなった。そこに住む人も含め、城下町沼津の面影は完全に消えていくことになる。

 

 おわりに

 一度失われた歴史的遺産を復元することは難しい。沼津城は跡形もなく消滅し、その場所にあった沼津兵学校の記念碑すら本来のものは撤去された。現在立つ沼津兵学校記念碑は1991年建立の2代目であり、初代の石碑は我入道の旧文化財センター敷地内に保管され、人目に触れることもなく横たわったままである。県内を見まわすと、明治初年の廃城により沼津と同じ境遇に陥ったはずの浜松・掛川・横須賀には現在も城跡が少なからず残り、天守閣が復元された場合もあり、城は町のシンボルとなっている。沼津は寂しい限りであるが、今さら市街地を他へ動かし、地中から堀や石垣を掘り返すわけにはいかない。

 町は刻一刻と変化していくものである。変化が乏しかった近世以前と近代とは大きな違いがあった。まして、経済状況などが直撃を与える現代、市街地・商業地の変化には急激なものがある。大火や戦災による被害は外から加えられた物理的な力によってもたらされた変化であったが、本来はそこに住む人間、すなわち内側から生まれる活力が町を変化させていくものである。今後はどのような変貌を遂げるのだろうか。歴史や文化を上手く活かしながらの変化であってほしいと願う。

 

 樋ロ雄彦(ひぐちたけひご)先生略歴

 1961年熱海市生まれ

 1984年から沼津市明治史料館学芸員

 2001年から国立歴史民俗博物館助教授

 2003年から総合研究大学院大学助教授併任

 2007年大阪大学より博士(文学)の学位を授与

 2011年から国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授

 著書に、『旧幕臣の明治維新沼津兵学校とその群像』(2005年、吉川弘文館)、『沼津兵学校の研究』(2007年、吉川弘文館)、『静岡学問所』(2010年、静岡新聞社)、『海軍諜報員になった旧幕臣一海軍少将安原金次自伝一』(2011年、芙蓉書房出版)など。共編・共著に、『沼津市史』、『韮山町史』、『清水町史』、『金谷町史』など。


2011年07月07日 17時20分

最高の知識集まった沼津兵学校
 

「最高の知識集まった沼津兵学校」上

 沼津史談会総会 樺山紘一氏講演より 

 中国地方が生んだ頭脳2

 沼津で西、静岡で津田が活躍

 沼津史談会(関口昌男会長)は、このほど市立図書館視聴覚ホールで総会を開催。終了後、記念講演が行われ、東大名誉教授で、現在、印刷博物館館長を務める樺山紘一氏による「駿河の西周(にし・あまね)と津田真道(つだ・まみち)」を演題とする講演を聴いた。また、この講演の後、元明治史料館学芸員で、現在は国立歴史民俗博物館教授を務める樋口雄彦氏が専門の沼津兵学校について、同時期に府中(静岡市)に開かれた徳川藩の学問所との比較などについて解説。沼津では当時最先端の教育が行われ、我が国初の総合大学が誕生していた可能性があったことを指摘した。

 この講演会は同会創立五十周年記念であると同時に、これまで沼津兵学校や兵学校頭取の西周、我が国初の小学校である代戯館について啓発、顕彰し、関連のモニュメント建立などを手掛けている香陵ライオンズクラブ(栗田昌彦会長)の創立三十五周年も記念したもの。

 両組織では周年記念として、樺山氏の講演要旨、関連資料をまとめた冊子『西周と世界、そして沼津ーオランダ留学によって西周が得たものは何か、沼津での歳月は何をもたらしたのかー』を製作。講演会参加者に配付した。

 樺山氏は「西は明治期、最も重要な知識人。その後の学術、文化にとって、なくてはならない人。西周という名前が周知され、近代日本を築き上げた一人であることを分かってもらえればありがたい」とした上で、そうした人物を抱え、「沼津と府中は当時としては最高度の文化を築くことができた」として話を始めた。

 津和野と津山 演題に取り上げた二人の人物の足跡などをたどる樺山氏は、三つの軸を中心に解説した。はじめの軸は「津和野と津山」。西の生まれは津和野。一八二九年、医師の家に生まれ、医師であり作家であった森鴎外とは親戚関係にあり、いずれも藩校の養老館で学んでいる。

 西も医師になるための勉強をしていたが、ペリー来航(一八五三年)の頃、当時大坂にいた西は、医師の勉強だけでなく、あらゆる知識を身に付けたい、と江戸へ向かう。大坂では、蘭学や英学を学んだ西だったが、当時は、開国か攘夷(外国を退ける)かという社会の混乱期。江戸では洋学、特に英学を中心に学び、蕃書調所(徳川幕府が創立した洋学の教育研究機関。洋書の翻訳なども手掛けた)の教授見習いとして、新しい日本のために勉強した。

 一方、津田は現在の岡山県、津山盆地に西と同じ年に生まれる。当時、津山藩には、特に蘭学を志す数多くの洋学者がいて、名だたる蘭学者が輩出。津田は、そうした蘭学者の指導を受けていたが、西と同様、社会が騒がしい時代、やがて大坂時代を経て江戸へ向かう。

 樺山氏は、学問先進地の長崎や江戸ではなく、中国地方の盆地が、こうした二人を生み出した点を力説した。

 当時、外国の接近に対して幕府は重要な人物を外国にやり、以後の日本のことを考えなければならないど思うようになっていて、一八六〇年代、二度にわたって留学生を海外に派遣する。

 初めは一八六二年。アメリカへの派遣を計画した。率先して近代化を図ろうとし、西や津田も派遣要員に含まれていたが、アメリカでは南北戦争の最中で断念。行き先は日本との結び付きも考え、オランダに変更。樺山氏は、オランダのライデンにいたシーボルトのアドバイスがあったのではないか、とみる。

 ライデンは、留学生にとって最先進の大学を持つまちだったが、オランダ自体は当時、ヨーロッパの最先進国ではなかった。最先進国だったのは、その二百年程前のことで、幕府も多少は察知していたようだという。

 一行は留学生ら合わせて二十人。留学生のうち文系の西と津田は、法律、政治、経済などを学ぶためにライデンにとどまり、理系の留学生は他のまちへ移って勉強した。ライデンでは、ライデン大学のフィセリング教授から法律学、政治学を学ぶ。教授は自宅に招いて、オランダ語ではなく英語で講義を進めた。

 留学生の二度目の海外派遣は、それから数年後。今度はヨーロッパの最先進国、イギリスに向かったが、その中に、後に静岡学問所で教える中村敬宇(なかむら・けいう)がいた。

 沼津と静岡 西と津田は一八六五年に帰国するが、一八六七年に大政奉還、翌年は明治維新。西も津田も行き場をなくし、七十万石の大名として静岡に転封となった徳川慶喜に従う。西は沼津兵学校の頭取(校長)として沼津へ、津田は静岡に移る。西は洋学者を集め、静岡にも江戸周辺から洋学者がやって来る。

 こうして沼津と静岡に当時最高の知的集団が集まり、特に英語教育に力を入れたが、沼津では兵学校だけでなく、小学校も含むシステム的な教育が行われた。西は一八六八年十月から約二年間、兵学校校長として采配を振るう。

 同じことは静岡でも起き、静岡学問所では津田、中村らが本格的な洋学、特に英学を始めるが、樺山氏は「西も含め、沼津の方に本格的な教育思想があったのではないか」との見方を示し、「沼津と静岡に当時、(国内で)最高の洋学センターがあったことは間違いない」とした。

 西は在職中、教育体制のことを考えながら多くのことを成し遂げ、同様に津田、中村も、留学で学んだことを静岡で実践に移す。

(沼朝平成2373日号)

「教育黎明期、新しい日本語次々と」下

 我が国初の総合大学探る動き

 国立歴史民俗博物館教授 樋ロ雄彦氏の解説も

 育英舎と同人社西周と津田真道、中村敬宇らが沼津、静岡で教育に携わっているのと同じ時期、東京では沼津と静岡の洋学者の力なくしては新しい政府はできないと考えていた。新しい社会、新しい世の中をつくる必要に迫られていた新政府に促され、西は沼津を引き上げて東京に戻り、津田、中村も東京へ。

 西は新政府での仕事の傍ら学校を造る。いわゆる家塾(私塾)の「育英舎」。ここで西は若い人を教えながら公務をこなした。ライデンで勉強し馬沼津で経験したことを基礎とした内容で、「百学連環講義」と呼ばれる。残念ながら、西がまとめて執筆したものはなく、聴講生の筆録と西の覚書の形で残された。

 百学連環は日本語と英語で書かれているが、西はライデンで学び、多くの日本人に伝えたいと思ったものを取り上げた。そのため、日本人に聞かせるには、それに対応する日本語が必要だった。西は新しい日本語を造り、一度造って、うまくなかったものは次の言葉を考えた。

 それ以前は、外国語の翻訳は中国語で表現していたが、西は次々と新しい言葉を造りながら若い人を教えていった。

 「哲学」「論理」「物理」「心理」「正義」「帰納」「演繹」など今では当然のごとく使われている言葉。この中には、哲学などのように逆に中国で使われるようになったものもある。

 この育英舎に対して、中村は「同人社」を開設する。福沢諭吉の「慶應義塾」と並び、当時、最も影響力を持つ私学だったという。こうして、西や津田、中村をはじめ多くの人が新しい社会、新しい文化を生み出そうと努力を続けた。

 樺山紘一氏(東大名誉教授、印刷博物館館長)は、「百学連環」が、どういう骨組で構成されていったのか解説したのに続き、「沼津の二年間で、西が何を考え、何をしたか。そして東京に戻り、学校を開設し、百学連環を講義し、新しい言葉を造り、これらは沼津での経験と深いつながりがあったのに違いない。学校教育に責任を持ち、百学連環を講義する、ものの考え方には、沼津と、それ以前の経験が大きな役割を果たしたに違いない」と、沼津時代が、その後の西の業績に大きな役割を演じたことを語った。

 そして、「百五十年前に、こうした人達が存在し、体を張り、学習し、主張して、学問や知性が引き継がれてきた。こうした人達の足跡をたどりながら私達の生活を築いていければいいのではないかと思う」と講演を締めくくった。

 樋口氏の解説

樺山氏の話を受けて樋口雄彦氏(元沼津市明治史料館学芸員、現国立歴史民俗博物館教授)が沼津兵学校と静岡学問所について解説した。

 それによると静岡学問所は、規模は大きかったが規則がなく、どのようにして生徒が教えられていたのか不明だという。その点、兵学校は陸軍士官の養成を目的としていて、規則がしっかり定められるなど運営が進んでいた。ただ、両校の学問内容はそれほど変わらず、静岡では洋学とは別に国学、漢学も教えるなど幅の広さはあっものの、それまでにもあった学問で、特に新しさはなかった。

 兵学校の仕組みがきっちり整えられたのは、西がオランダで学校制度を学んできたため。附属小から兵学校へ進むには試験を受け、兵学校も資業生、本業生、得業生と段階的に進級する制度が設けられた。

 静岡学問所には、漢学者、儒学者ら偉い人が多く、樋口氏は「規模が大きすぎて津田一人では、なんともできなかったのではないか」との見方を示した。

 オランダで法学や政治学を学んだ西にとって、沼津で本当にやりたかったのは国の形を設計するような、幕府に代わって国の形をつくりたいということ、政治の最前線で自分が学んできたことを生かすようなことではなかったか、と樋口氏。

 陸軍の士官養成学校ではヨーロッパで学んできたことをストレートに生かすことはできず、西が明治二(一八六九)年にまとめた「徳川家沼津兵学校追加掟書」によれば、沼津兵学校を総合大学にしたいという壮大な計画を考えていたのではないかという。

 津田が、これに賛成したのか反対したのかは不明だというが、西の構想通りのものが出来ていれば、東大と並ぶものが誕生していた可能性もあり、一時、実現しそうな動きもあったが、頓挫した。

 樋口氏は「西の計画は沼津だけを想定したもので、静岡は考えていなかった。だから、沼津だけ突出してどうするのか、反対があったのかもしれない」などと語りながらも、日本の近代教育の黎明期、沼津が全国から注目される地であったことを示唆した。

(沼朝平成2375日号)


2010年04月03日 11時33分
22年3月27日「眞野文二展記念講演」


「眞野文二テーマに講演会」 上

 代戯館まつりで2人を講師に

 第7回代戯館まつり(同実行委主催)の記念講演会が、大手町のぬましん四階ホールで開かれた。工学博士真野文二をテーマに二人の講師が講話。はじめに国立科学博物館の鈴木一義主任研究員が講師を務め、近代日本がどのようにして技術大国に至ったかを話した。

○ はじめに工業の近代化

 国立科学博物 館鈴木一義主任研究員

 鈴木主任研究員は「アメリカを模倣する時代は過ぎた」と独自のものづくりを行うことの大切さと、元となる志の高さを培ってきたのが真野文二らだ、として話を進めた。

 鉄鋼の金型は、海外工場を含め世界の約半分を日本が作っているようなものだという。3Kと言われた産業は新興国に移っており、アメリカをはじめ先進国はトン当たり一万円のものから十万円の製品を手掛ける。

 先進国では日本だけがトン当たり一万円の製品を作っているが、「世界の高層ビルも日本の鉄を使わなければ建たない。江戸時代から、技術を極めるのが変わらないものづくりの姿であり、その価値を認めなければいけない」と指摘。

 トン当たり一万円の産業分野を、どのように付加価値の高いものにするか、生かしていくかが課題だという。

 また、建物の構造に関して、日本は地震や台風が多いために揺れに合わせることができる柔構造体で造らざるを得ず、石を積み上げて造る剛構造の建物が多い中国と違う点を説明。現存する世界で唯一の反射炉である韮山の反射炉は、煉瓦を積み上げた剛構造だが耐震補強が施してある。

 当時の日本には煙突の観念はなかったので「何のために、これ(反射炉の煙突構造)があるのか分からなかった」という。

 煙突によって風を炉の中に入れ酸化と還元を進めるのが目的で、本来は大量に溶解するだけでなく、スチールを作るためのものだが、日本の反射炉は鋳物を作るのにしか使われていなかった。溶解した鉄を精錬してスチールを作ることについては、「努力した結果、幕末に気付いた」。

 オランダ語の専門書を日本人が独学で翻訳しながら組み上げたもので、そこには試行錯誤もあったが、現代では強固な素材としてカーボンナノチューブがあり、煙突どころか、宇宙に延びるエレベーターの構想が真剣に考えられているほど。

 鉄工業については、長崎製鉄所が国内最初の機械による技術を導入したことや新日鉄の八幡製鉄所が多様な鋼材を作るシステムを作ったことなどを説明した。

 また、機械については、ロシアから入ってきた工作機械を見世物にしている幕末期の絵を紹介。この機械は手動で歯車を回

して木材を切るもので、ノコギリではなく機械で切るという認識を早い時期に庶民が持つことができた。日本には見慣れない先端機械を見世物として見せる風習があったのだという。

 「見世物になるということは(庶民の)関心も高かった。工作機械を自分達でどう作るか。日本は在野(民間)から職人的な技で近代化を成し遂げた」といい、幕末に薩摩藩に入った帆船の帆を作る紡績機械は、東京にも伝わり、浅草で見世物になった。

 しかし、造られた機械は、木製の機織機を並べたものを一つの水車で回して動かすもので、金属で出来た本物とは似ても似つかない。「全然違うものだったのに、(これが)鹿児島に入ったものだ、として見世物になっていた」という。

 鈴木主任研究員によれば「(日本は)十九世紀にならないと科学と工業が結びつく(サイエンス&テクノロジー)ことはなかった」。

 工業については、奈良時代には百万塔陀羅尼というのがあり、四年間で百万基の塔を造って「陀羅尼経」を納めたという記録があり、「八世紀に大量生産をやっていた。その加工技術があった」ことがうかがえるという。

 「機械にとって重要なのは動かなければいけないこと。歯車にしても噛み合わせの理論がなければ動かないので、職人は技術だけでなく先端の学問にふれていた」

 沼津兵学校については「徳川家が全国から優秀な人材を集めて次の時代を担う人材を育成しようとした。今は(西洋の)一方的な価値観の中にいるが、明治時代の人は和と洋の比較ができた。その後の(学問の)方向が間違っていなかったのは、価値観を比較できたためではなかったか」とし、兵学校の科目や進級システム、附属小学校、などにも触れ、「今よりも素晴らしいシステムであった気もしないではない」と話した。

 また、後の東大工学部である工部大学校に言及。「世界で最初の工学中心の大学で、ものすごい厳しかった。ほとんど休みがなく土曜日が毎週試験で、これは全て原語で行われていた」という。

 この大学の教授らが行った研究は「日本をどう富ませるか。社会にどう役立てるかというもので、科学だけをやっていたのではない。伝統的に産学連携だった」と説明した。

(沼朝平成2242()号)

 

「眞野文二テーマに講演会」 下

 沼津兵学校めぐる親族

 総合研究大学院大学 樋ロ雄彦准教授

 まず文二の父親、肇(一八四一〜一九一八)について。肇は江戸幕府の陸軍士官で旧名、覚之丞(かくのじょう)。江原素六より一歳年上だった。文二は肇二十歳の時の子どもだが、親子揃って兵学校入学という珍しい例として挙げた。

 江戸城無血開城の前日、肇ら三人の士官が勝海舟に宛てた意見書を『勝海舟全集』別巻から引用。

 「江戸城開城の直前に官軍にあくまで交戦しようという幕臣が多かった。慶喜の意思に反することはできないので、上官には従えない。臆病者と言われるかも知れないが…」といった気持ちがつづられている。

 肇は恭順派の一人だったことが分かるが、江原も恭順派。江原は主戦派を説得に行くが、説得できずに戦争に加わらざるを得ない状況になってしまう。

 江原は肇の上官だが、交流があったことは明治史料館に残されている個人的なやり取りの史料から分かるという。

 肇も最終的には江原のように教育者となったが、最初は陸軍士官を目指した。明治元年に沼津に来て、兵学校で学んだ後、同校附属小学校が公立の小学校に生まれ変わった集成舎の教師を務めている。沼津に残って教師を務めたのは明治七年までで、この年、文二と共に東京へ。

 肇は数学が得意で、沼津でも数学を教えていたが、東京で陸軍兵学寮、海軍兵学寮に移り、数学と航海術を担当。その後、いくつか替わった学校でも、一貫して数学の教師で、最後には、旧幕臣の子弟育成のために旧幕臣が資金を出し合って開いた育英學(いくえいこう)の教師を務めた。

 沼津兵学校で教えていた数学は、当時としては優れた内容で知られ、同校教授の塚本明毅が著した『筆算訓蒙』は名著と言われる。

 明治八年、肇が、同じ兵学校で学んだ岡敬孝と共に著した『筆算訓蒙解』では、端書きに塚本に教わる機会があったことを「拱壁(きょうへき=壁を大切に抱えるように、宝物のようなもの)とす」とあり、『筆算訓蒙』が「初めて西洋の算術を学ぶのに宝物のようなものだった」と言い、その数学を解説することを目的としたものだという。岡は、肇の妹の夫。

 明治二十三年に開かれた古物展覧会の出品資料には、肇の出品として先祖が使った甲胃が記されている。真野家の先祖は織田信長の次男に仕え、小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉と戦った旗本。

 先祖代々の品を伝えていた家柄を肇も誇りとしていて、後に文二がクリスチャンになった時には大反対だったという。

 文二の最初の妻は二十代で亡くなり、葬式では親せきの姿すら見えず変な雰囲気だったことが、関係者の残した史料で分かる。

 文二の妻もクリスチャンだったが、真野家は代々寺に埋葬していたことから、妻の葬儀はキリスト教と仏式の両方で行ったが、肇は「其怒気は未だをさまらぬものか又は余を見て更に発したるものか身を震はせ言葉もよくはいでず」と怒り心頭だった様子で、文二は「傍らに見る真野氏はいと面目なげに見えたり」とある。

 文二は、その後、後妻をもらうが、この妻も亡くなり、三人目は最初の妻の妹をもらっている。

 次に登場するのは肇の四歳年下の弟である大岡忠良。忠良も兵学校で学んだ。資業生として在学中に名古屋藩の兵学校に教師として招かれた。

 当時、沼津兵学校には他の藩から「教えに来てほしい」という依頼が殺到。教員から生徒に至るまでが各藩に教えに行き、これを「御貸人(おかしびと)」と言った。

 忠良も数学を教えたが、肇のように最後まで教師を通したのではなく、晩年は新聞記者として過ごした。

 樋口准教授によれば、文二の手紙から「大岡という人は正直成功しなかったので、あまり豊かではなかったが、お酒が好きだったようだ」という。

 また岡敬孝は忠良と同期で、沼津兵学校の資業生として最後まで残った六十三人の一人。陸軍兵学寮の教導団に編入されたが、忠良も岡も兵学寮を飛び出し、兵歴をまっとうしなかった。

 岡は報知新聞の草創期を担った経歴を持つ人物達の中で紹介されている。

 「彰義隊に加わった血気盛んな時期もあったようだが、兵営生活が厳しいし、薩長に嫌気が差して飛び出した」のだという。

 樋口准教授は明治史料館に学芸員、主任学芸員として勤務した十七年間、岡について「東京のお墓も調べたが、どこに行った。子孫も見つけ出せずにいる。どこか子孫がいるはずだと思う」と残念がる。

 肇の娘の舅となった飯野忠一も岡らと兵学校の同期で、後に科学の教師となった。

 「真野文二には、こういう親せき、おじさんがいた。数学の先生が少なくなかったということが言える」として、文二が工学方面に進んだ素地があったことを示唆した。

 樋口准教授は「機械工学的なことを沼津で学ぶような機会があったかというと、それはなかったと思う。兵学校の学科には、資業生にも本業生の砲兵の学科にも器械学があった。教科書もノートも見つかっていないので、何を教えたかは分からない」とし、兵学校の器械学については謎だという。

 ほかにも兵学校で教えた機械関連のことを考える材料があり、静岡藩の軍事を担当する部署に軍事係付御職人という肩書の人が二人出てくる。兵学校には大砲や銃があったため銃砲関係の職人であった可能性が高く、小銃の修理や製造などを担当したことが書かれている。

 明治政府の記録の中には、兵学校の残具整理の記録があり、兵学校に残されていた器械を引き上げたことが記され、「兵学校に何らかの器械があったことは間違いなかったようだ」と樋口准教授は最後に、「文二は数学が得意だったことを頭にとどめておいてもらえば、理解が深まるのではないか」と工学との関連を改めて示した。

(沼朝平成2243()号)


2009年12月23日 18時15分
    沼津兵学校に「総合大学」計画

 沼津兵学校に「総合大学」計画

 明治史料館 裏付け資料初公開

 日本の近代化に貢献した人物を数多く輩出した「沼津兵学校」の初代頭取(校長)西周が、同校を欧米流の総合大学に発展させる計画を立てていたことを裏付ける資料徳川家「沼津学校追加掟書(おきてがき)」が27日まで、同市西熊堂の明治史料館で開催中の特別展「沼津兵学校のすべて」で初公開されている。

 オランダで西洋の人文・社会科学を学んだ西は、兵学校が開校した1869年の4月に掟書を起草した。武官を養成する既存の兵学科(歩兵、砲兵、築造)に加え、政治法律、歴史、医科、工学農学の4科からなる文学科を設け、行政官や教員、医師、技術者といった文官も養成する構想が盛り込まれていた。

 掟書は清書の状態で、起草の前月に静岡藩から、「校名から『兵』の字を削除する」との通達を受けたこともあって、印刷直前まで発布計画が進んでいたとみられる。しかし10月には、新政府一から静岡藩に3千人の兵を養成するよう命令があった後、「校名を元通り(兵学校)にする」との通達が下され、計画は実現しなかった。

 特別展は来年328日まで。教授陣や生徒の写真をはじめ、学校の地図、近代化に及ぼした功績などを中心に、同館が開館以来収集してきた資料約470点を展示している。数学や英作文のノートなど、授業の現場を伝える貴重な資料も初公開した。掟書は国立国会図書館への返却期限があり、年末まで公開し、その後はパネル展示で紹介する。

 図説「沼津兵学校」(A4判、96n、価格1000)を発刊し、116日と320日の午前11時からギャラリートークも行う予定。問い合わせは市明治史料館〈電055(923)3335〉へ。

(静新平成211223日朝刊)



「沼津兵学校と関係深い福井藩」(沼朝平成21524()記事)

史談会総会で熊澤恵里子東農大教授が講演

 多額の藩費使い藩士送る

藩内改革、教育課程に多大な影響

 沼津史談会(四方一瀰会長)は総会を市立図書館視聴覚ホールで開催。議事終了後、「沼津兵学校と福井藩」をテーマに東京農業大の熊澤恵里子教授・の講演を聴いた。熊澤教授は早稲田大卒、同大大学院博士課程を修了し、幕末維新期における教育近代化などを研究している。

 自己紹介で熊澤教授は、「江戸の末期から明治のはじめ、封建社会から近代社会へ移る時の教育の変革を研究し、福井藩と沼津藩の関係を調べている。幕府の教育機関を研究するうちに徳川家が静岡に移り、その後どうなったのかに興味を持ち、沼津兵学校にたどり着いた」という。

 兵学校について「先進的な教育内容もさることながら、他藩の遊学生を受け入れ、他藩の学生を育てた」ことを特徴として挙げた。

 一方、「自藩の学生を送り込んで自藩の建て直しを図った藩で、一番多くの遊学生を送り込んだ」福井藩について、沼津兵学校が看板を下ろした明治四年以後、福井に帰った人、あるいは東京などに出て活躍した人など多くの歴史的人材が輩出したことを指摘。福井県出身者に博士号取得者が多いという話から「そのルーツが沼津兵学校に求められることは、あまり知られていない」とした。

 福井藩十六代藩主の松平慶永(よしなが=号・春嶽)は逸材を登用し、藩政改革、藩校改革に取り組んだ人物。登用された人達が、教育改革でどのように活躍したかなどは歴史研究者の間では話題になっても「誰も沼津との関係は取り上げていない。(そのため)教育の近代化過程における沼津と福井との関係で研究に取り上げてきた」という。

 熊澤教授は、大学院修士課程では、幕府の教育機関と沼津兵学校について、その関連性を含めて論文を書いたが、この過程で明治史料館の樋口雄彦学芸員(当時。現・国立歴史民俗博物館総合研究大学院大学准教授)に世話になったという。

 修士論文以降は、もっぱら福井藩の方の研究にかかりっきりになり、沼津とは縁遠くなった。

 沼津兵学校については、「四方会長、樋口先生以上のものはできない」と話し、福井藩とのかかわりの中で教育の近代化を解明しようと努めている、という。

 福井藩の藩政改革や藩校改革について、「福井藩は幕府に疎んじられ、政局が安定していない中で進取の意気を貫いた。函館戦争では諸藩預かりとなった人を厚遇した」とし、藩校改革について「大きな藩費を使って藩士を沼津兵学校に送り込んだ。西周の学校観が春嶽の学校観に一致していた。藩校改革に影響を与えた」と説明。春嶽は西を「兵学の師」と仰いでいたという。

 幼いの頃から春嶽につき教育の主導的立場だった側用人の中根雪江(なかね・ゆきえ)も春嶽の師と言える立場だったようだ。

 春嶽は、藩主となった天保期当初、藩政は上級藩士主導による改革が行われていて藩主といえども急激な藩政と藩校改革はできなかった。

 藩全体が倹約ムードで、安政期には藩財政に由利公正(ゆり・きみまさ)、教育改革に橋本左内(はしもと・さない)を登用し、教育では私費、藩費の遊学の規定が決められるなど改革ムードが生まれる。しかし、安政五年(一八五八)の大獄で、橋本左内が死罪、中根が辞職して藩政改革は窮地に追いやられる。

 文久元年(一八六一)に中根が復職し、同二年に春嶽が政治総裁職に就任。由利の記録によれば藩の財政は経済的に豊かだったが、どのぐらいの蓄えがあったのかは分からない、という。

 文久から慶応期にかけて、倹約策から富国策へと政策転換が行われ、遊学が盛んに行われるようになる。ただ、春嶽に招かれ藩政改革を指導した横井小楠(よこい・しょ

うなん)と西周の流れの藩士達とは、グループが異なり、いわゆる派閥のようなものがあった、という。

 教育改革は明治期に入るとさらに強化され、八歳以上での就学が徹底されるようになる。明治初期に福井藩学校規条が作られるが、「内容的には沼津兵学校のカリキュラムを取捨選択したものだろう」と熊澤教授。

 「沼津兵学校と違うのは『中学校』という名が出てくること。春嶽はヨーロッパの小・中・大学(プロイセン=ドイツの学校体系)を知り、小・中学校が福井に設置されることになったのだろう。現在の小・中学校とは全然違う。年齢的にも全く異なる」と説明。外塾が十二歳までで、十二歳から小学校、十七歳から二十歳まで中学校だったという。

 一方、沼津兵学校に遊学し、福井藩に戻ってきた人には理数系の教師になった人が多かった。しかし、福井で理数系が優秀だと言われて兵学校に遊学しても、沼津での試験の成績は思うようでなかったとの話が伝わっていて、熊澤教授は「沼津(兵学校)はレベルが高かった」。

 当時、遊郭から兵学校に通った学生もいたが、「それが分かると閉門(福井への帰還命令)となり、家族にまでお咎めがあった記録が残っている」という。

 教科に関しては、「藩校改革の流れを見ると重視しているのは兵法や軍事技術。藩校における成績が重視され、自然科学系の学問を習得した人が藩に重用され、(学問を習得していれば)下級武士にも出世の道が開かれると聞いて下級武士の家で教育熱が上がった」と解説。

 春嶽自身は非常に勉強熱心で、学問を教える人を招請したり、藩士を他藩へ遊学させたりと将来の目をもって投資していたが、「とりわけ沼津兵学校への遊学は成功した」。

 兵学校について「学問体系が充実していた。とりわけ自然科学が充実していた。(慶応四年に出来た)慶応義塾はサイエンス(の学科)が明治十六年にようやく行われ(始め)た。自然科学系が軍事以外に活用され、有意義であることが、あまり分かっていなかったのかなと思っている」とし、慶応義塾を開いた福沢諭吉は長男をアメリカに送り、農学を勉強させようとしたが、農学にはサイエンスが必要であり、息子は農学から商学に専攻を変えたという。

 慶応義塾におけるサイエンス新設はこのような背景があったようだとし、「沼津におけるきちんとした勉学体系が、当時としては、いかに画期的だったかが分かると思う」と指摘した。

 福井では「普通の学」と呼んだ教育課程があったが、「普通」という名とは違い高度な内容で、習得できずにドロップアウトする人も多かったという。しかし、藩の仕組みとして、習得できない人は正規の出世を期待できなかったようだ。

 この後、福井藩から沼津兵学校への遊学者の兵学校時代の数学のノートをスライドで上映。封()数計算のページを映し、黒板か他人のノートを間違って写したのか、「10g」が、どう見ても「boy」と書かれていることなどを紹介。「沼津で学んだものを持ち帰ったものが各地に残っている可能性がある」とした。

 さらに、「維新期の諸藩の学校改革は、何らかの形で沼津との関連があったと思っているが、福井は特に関係が深かった」と指摘。

 翻って「西周が兵学校を創設し目指したものが何だったのか。コモンサイエンスのコモンは市民という意味で、市民の学問ということ。これからは西が(兵学校を開校するにあたり)参考にしていたイギリスについて研究していきたい」と話した。






 
   平成20年11月16日(日)午後1時より
   「西周碑除幕式が行われた。
 
   除幕者:沼津市長・県沼津土木事務所技監
       沼津香陵LC会長・大手町商店街理事長




 西周の功績たたえ
 御影石製記念碑を除幕 沼津
 明治時代に沼津兵学校初代頭取(校長)を務めた思想家の西周(にし・あまね、一八二八ー一八九七年)を顕彰する記念碑の除幕式が十六日、沼津市大手町のイーラde前で行われた。栗原裕康市長ら関係者が紅白のひもを引き完成を祝った。記念碑は御影石製で、縦八十a、横百a、高さ八十a。沼津香陵ライオンズクラブ(芹沢忠久会長)が三十周年記念として二〇〇六年に製作し、同市に寄贈した西のブロンズレリーフをはめ込み、功績を記した。
 芹沢会長は「西の功績を市民をはじめ、市外や県外の多くの人に知ってもらいたい」とあいさつした。
 西は現在の島根県津和野町生まれ。江戸幕府のオランダ留学生となり、明治維新に際して沼津に移住。西洋の哲学思想を日本に導入し、学問の近代化に貢献した。JR沼津駅西側の「あまねガード」(旧中央ガード)は、ガードの南側に西が住んでいたことにちなみ名付けられた。
(静新平成20年11月17日(月)朝刊)


 
 西周記念碑を除幕し寄贈
 香陵ライオンズクラブが市へ
 香陵ライオンズクラブ(芹沢忠久会長)は、西周(にし・あまね)記念碑除幕及び寄贈式を市街地再開発ビル南東の地下道入り口付近で実施。同クラブ会員をはじめ関係者らが集まった。
 記念碑は、台座が縦一四〇a、横と高さ各八〇aで、同クラブが十八年三月に市へ寄贈したレリーフが収まる。レリーフは彫刻家の下山f氏が、オランダ留学時代の西の写真をもとに制作したもので、その後、明治史料館で展示されていた。
 西は明治初期、旧徳川家によって作られた当時の最高水準を誇る「沼津兵学校」の頭取(校長)で、同校からは日本の近代化をリードする人材が多く輩出し、我が国近代教育のさきがけとなった。さらに西は近代思想家として「哲学」「科学」「心理学」といった訳語を考案するなど諸外国の文化・思想を日本に紹介したことでも知られている。
 式典には芹沢会長はじめ同クラブ会員、栗原裕康市長、下山氏、近代教育史を専門とし同クラブにアドバイスした元国士舘大教授の四方一瀰氏、大手町商店街振興組合の松田和孝理事長、県沼津土木事務所の安藤祐副技監、明治史料館の端山茂樹館長らが出席。
 芹沢会長は、「三年程前に下山先生に作っていただいたレリーフを、ようやく表に出すことができた。(自分は)西周という名前は知っていたが、どういう人か知らなかった」とし、市民の九八%が知らないのではないかとしながら、「大変偉い人で明治政府になっても高官として迎えられた」などと説明した。
 引き続き芹沢会長、栗原市長、下山氏らにより除幕が行われ、芹沢会長から栗原市長に贈呈書が手渡された。
 栗原市長は「私も西周は存じておりました」として、西が現在の島根県津和野の出身で日本で「哲学」などを普及させた最初の人物であるとしながら、「あまねガードが西周(から命名した)とは存じませんでした」とし、「沼津駅周辺の整備事業もしっかりやっていこうということで、そういう場所に西周が住んでいたとは(意義深い)」などと話した。
(沼朝平成20年11月18日(火)号)



      あまねガードと西周
 栗田昌彦(沼津香陵ライオンズクラブ地域文化事業委員長)

 沼津駅の西側に街の南北を結ぶガード「あまねガード」がある。ガードの名前は知っていても、由来を知る人は少ない。明治維新、沼津に移り住んだ西周(にし・あまね)の名前から取ったものだ。周は、文政二年(一八一九)二月三日、石見国(現島根県)津和野藩医の子に生まれ、幼名を周助と言い、嘉永六年(一八五三)、江戸に出て蘭学を学んだ。文久二年(一八六二)には幕府のオランダ留学生として渡欧し、自然法学、国際公法、国法学、経済学、統計学を学び、コントの実証主義、J・S・ミルの功利主義の影響を受け、カントの思想をも理解した。
 慶応元年(一八六五)に帰国。翌年には幕臣に取り立てられ開成所(旧蕃書調所)の教授となり、徳川慶喜の諮問に応じ、大政奉還後の政権構想として議題草案を起草。三権、すなわち「禁裏(天皇)の権」「政府(幕府)の権」「大名の権」の分立を説いた。
 それによると、立法権は上院(一万石以上の大名で構成。議長は大君=将軍)、下院(各藩の藩士の代表一人ずつで構成。解散権は大君にある)とで成り、行政権(長は大君)は幕府にあり、朝廷が幕府に最終決定権を与えるが、朝廷に拒否権はないという、幕府の改革意見書であった。現在の象徴天皇制に等しい、我が国最初の憲法私案でもあった。
 静岡藩主となった慶喜の陸軍将校養成校としての徳川兵学校(後の沼津兵学校)の頭取となって周も沼津に赴いた。兵学校は、歩・騎・砲・工と衛生・経理(軍医・計理)の各科と、予備小学校(近代的小学校のはじめ)と付属の病院を備えた日本で最も近代的兵学校であった。
 周は、沼津では片端一九番地(あまねガードを南側に上がった辺り)に住んだ。
 明治三年(一八七〇)、明治政府の徴命により上京。兵部省に出仕し、学制取調御用掛を兼任した。以後、明治政府の官僚・学者として活躍し、東京学士会員会長・貴族院議長などを歴任し、男爵に列せられた。学制・軍制の基礎づくりに大きく貢献し、「軍人勅諭」の起草にも関与した。
 また、私塾育英舎を開いたり、津田真道、福沢諭吉、森有礼

らと明六社を結成したりして文明開化の思想を鼓舞した。特に西洋の哲学思想を我が国に導入した功績は大きく、封建的な学問・思想を否定して、日本の近代化を理論付ける役割を果たし、明治三十年(一八九七)一月三十一日、没した。六十九歳だった。
 沼津との関わりも深い西周のこうした功績を顕彰し、市民の皆さまによく理解していただくため、沼津香陵ライオンズクラブ(会長・芹沢忠久)は、周が居を構えた近くのイ〜ラde南東端に記念碑を建て、今月十六日(日)午後一時より地域・市・県の関係者による除幕式を執り行います。
 香陵ライオンズクラブ地域文化事業委員会は、沼津市の文化を掘り起こし、地域の活性化のために、さまざまな事業に取り組んでまいりました。今後も、さらに発展させる予定です。
(沼朝平成20年11月12日「言いたいほうだい」)




沼津一小:歴史積み重ね140周年
記念式典 山本コウタローさん講演

 創立百四十周年を迎えた沼津市八幡町の沼津一小(関野しほり校長)は十三日、同校で記念式典を開いた。保護者や地域住民ら約二百人が参加した。
 同校の前身は静岡藩徳川家の沼津兵学校付属小。明治元年に生徒募集を行い、翌年一月八日に開校、同十三日から授業が始まった。当時は約二百人の児童が在籍していて、全国で最も歴史の古い小学校とされる。
 榊原進一PTA会長が「地域に見守られて歴史を積んだ学校。創立百四十周年を機に、新しい歴史の一ページとなるよう、今後も保護者同士の連携を強めるなど努力する」とあいさつ。関野校長は「子供の幸せと学校の発展のためよりよい学校環境を目指す」と誓った。
 続いて市内西浦で野菜の有機栽培をしている歌手の山本コウタローさんが「わたしの少年時代」と題して講演。山本さんは、近年少年犯罪が凶悪化していることを挙げ「昔は自然が豊かで触れ合いがあった。子供時代に生命の大切さを教えることが大事」と話した。ヒット曲「走れコウタロー」や「岬めぐり」なども披露した。
(静新平成20年9月14日(日)朝刊)








沼津兵学校と沼津版
 投稿者:ぬまづ  投稿日:1024()151114

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島田三郎(第4期)資業生

海軍将官のスキャンダル追及の先頭に立ったのは、野党・立憲同志会の島田三郎だった。島田は嘉永5(1852)の生まれ、102人扶持という小禄の御家人鈴木智英の三男で、幕府の倒れたあと大蔵省付属の英語学校で勉強し、明治6年に「横浜毎日新聞」の翻訳係として入社した。ひところ江藤新平のもとで書生をしたこともある。

この新聞の社長は幕府の御用商人だった島田豊寛で、島田は文章のうまい鈴木三郎を養子に迎えた。ひところ立法機関の元老院に出仕したが、明治14年の政変で新聞に戻り、国会には第1回の総選挙から連続当選した。(三好徹著「政・財腐蝕の100年」より)

田口卯吉(第6期)資業生

田口は安政2(1855)の生まれで、家格は軽格の徒士だった。父の樫郎の死後は兄の貫一郎が家督を相続したが、翌年に死亡し、田口が満5歳で相続人となった。といっても、現実に徒士見習として勤務できるようになったのは元服(慶応2.1866)したあとである。もちろん、少年の身でそれが認められたのは、曽祖父が有名な儒学の権威だった佐藤一斎だったことや、姉の鐙子が家柄のよい木村熊二に嫁いでいたことも関係していたと思われる。

木村は但馬出石藩士の家に生まれ、幕臣木村家の養子となり、佐藤一斎や安積艮斎らに学び、18歳で聖堂助教となった秀才だった。だが、学者の道を選ばずに歩兵奉行の下に入り、京都取締役、歩兵差図役を務め、幕府が倒れたあとは彰義隊に加わった。

ただし、官軍との戦闘当日は糧食調達のために浅草蔵前へ出ていたために死なずにすんだ。実は田口も彰義隊に入ろうとして、木村にとめられた。元服したとはいえ満13歳の少年なのである。

勝てないとわかっている戦闘に参加させるのは忍び得なかったからだろう。木村はのちにアメリカに亡命し、キリスト教に入信して帰国後、明治女学校や小諸義塾を創設した。島崎藤村は教え子の一人である、田口はこの義兄の影響を大きく受けた。木村は京都時代に新選組の近藤勇や土方歳三とつきあいがあった。田口は維新後は医師を目指したが、生活のために明治5年に大蔵省の翻訳局に入った。月給6・円。そして2年後に11等出仕、判任官心得、月給30円。ノンキャリの最下位である。

明治に入ってからの旧幕臣の生き方は二通りである。榎本武揚や勝海舟、大鳥圭介のように藩閥政府に出仕する道か、記者とか教育者とか職業はさまざまでも、藩閥政府のめしは食べない生き方をするか、である。成島柳北、沼間守一、田口卯吉らが後者に入る。

田口卯吉は、母、祖母、姉を養うために下級の官員になったが、上司や同役の者に酒席に誘われても、つねに断った。旧幕臣の偏屈者と陰口されても、本人は平然としていた。そして、明治11年に役所を辞めると、その問に書きためていた「自由交易日本経済論」と「日本開化小史」を出版した。

田口は、これらの著作でも、「徳川幕府」ではなく「徳川政府」という表現を用いたし、尊擁派から大悪人に扱われた井伊直弼についても、「国家に大功ありというべし」と書いた。田口の著作は、岸田吟香、沼間守一らの言論人ばかりか、渋沢栄一のような経済人からも注目された。日本の古典だけではなく、ミルの「自由について」、スペンサーの「社会学原理」等、西欧の著作にも目を通しており、かつ、経済の重要性を説いていたからだった。渋沢もまた旧幕臣である。はじめは大蔵省に入って井上馨の下で働いたが、適当に切りあげて経済人として再出発した。渋沢は田口に声をかけ「東京経済雑誌」を出すことにした。月刊でスタートしたが、評判はよく、半月刊、旬刊となった。渋沢は反政府ではないが、基本的には自由経済の推進論者だったから、藩閥政府の三菱保護政策には反対だった。田口が、三菱への国庫補助を批判したときも、自由に書かせた。その一方で渋沢は、長州閥の井上馨とは仲がよく、共同運輸の設立にも関係した。ところが、社長が海軍の将官では、岩崎一族とは互角の勝負はできない。合併はやむを得ないとしても、気がついたときにはいつの間にか日本郵船は乗っ取られている。そこで田口にデータを与えて三菱のやり方を暴露したのだ。(三好徹著「政・財腐蝕の100年」より)

●田口卯吉の経済観・歴史観・国語観「四方氏・明治14年政変と東京府中学校規則」