沼津兵学校附属小学校生徒



主な沼津兵学校附属小学校生徒


2011年03月26日
榊 俶

榊 俶 安政4828〜明治3026

 沼津兵学校三等教授並榊綽の長男。医学博士。駿府移住により静岡学問所に入学したが、後沼津兵学校附属小学校に転校した。東京大学医学部を卒業、我が国精神病学のパイオニアとなった(『榊綽先先生顕彰記念誌』)

 榊綽と息子たち

 父子で沼津兵学校の教授・生徒の間柄であった事例は、西周・紳六郎父子、渡部温・朔父子、間宮信行・信勝父子、などが知られるが、ここに紹介する榊(さかき)綽(ゆたか)と俶(はじめ)・順次郎の父子の場合もその一例である。

 榊綽(一八二三〜九四)は、沼津兵学校教授に就任した明治二年(一八六九)当時、四十六歳。頭取の西周よりも六歳年長で、教授陣の中では最長老だった。それだけに洋学者としての経歴も長く、業績もあった。筑前黒田藩士の家に生まれたが故あって浪々の身となり、貧窮の生活を送っていた彼が再び津藩藤堂家に仕官する好運に恵まれたのは、ひとえに蘭学の実力によるものだった。師は杉田玄端、杉田成卿。特に西洋画や写真技術に関心を持ち、研究を重ねた。安政年間の訳著書として、西洋の工具類を精密に作図した『火技全書図』、ロシア語の入門書『魯西亜字筌』がある。さらに抜擢され、津藩士から幕府の蕃書調所活字御用出役に転じたのは安政五年(一八五八)。以後幕府瓦解に至るまで活版印刷・石版印刷などの研究を続けた。明治元年十月駿府に移り、静岡学問所三等教授格に任ぜられるか、翌年沼津に転じ兵学校の図画方・二等教授並となり、四年には三等教授に進んだ。綽は旧幕時代から通称の令輔を名乗っていたか、兵学校時代に令一と改名したようである。兵学校廃止後は上京し、兵部省・海軍省・太政官地誌課に奉職し、明治十年(一八七七)を最後に官を辞した。

 長男俶(一八五七〜九七)は、江戸で開成所に学んだ後、駿府移住により静岡学問所に入学、さらに沼津兵学校附属小学校に転入した。東京大学医学部を卒業後、明治十五年(一八八二)ベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。四年後帰国、医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設した。我が国における精神病学のパイオニアである。

 次男順次郎(一八五九〜一九三九)も明治二年四月に沼津兵学校附属小学校に入学した経歴をもつ。十六年東京大学医学部別課を卒業、産婦人科学を専攻し、ドイツに留学もした。

 三男保三郎(一八七〇〜一九二九)は沼津で生まれた人。明治三十二年(一八九九)やはり東京帝国大学を卒業。長兄の衣鉢を受け継ぎ精神病学を専攻し、海外留学から帰朝後、九州帝国大学医学部教授になり、約二十年間同大学で精神病学講座を担当した。

 三兄弟とも医学博士であり、また長女小梅、次女徳子の婿(緒方正規・岡田和一郎)もそれぞれ医学博士であった。

 優秀な息子たちに囲まれ、紳は幸福な晩年を送ったようである。退官後は絵画や謡曲などの趣味に没頭し、特に動物の骨格標本の製作に取り組んだ。それらの標本類は東京帝国博物館に納められたという。

〈参考文献〉『故榊令輔後練及室幸子略伝』(一九一六年)、『榊俶先生顕彰記念誌』(一九八七年榊俶先生顕彰会発行)、榊順次郎「履歴書」(明治二三年榊愛彦氏提供)ほか。

 

 

榊家の由来並びに父綽(ゆたか)(通称令輔、号篁邨)、母こうについて

 

榊家は鎌倉時代方続いた武家。榊定禅は蒙古襲来のときの功によって1289年(正応2年)筑前の国、早良郡四箇村に領地を受く。16代目の善右衛門の時、筑前藩の黒田忠之(長政の一男)につかえ、綽の父(榊俶の祖父)長右衛門は21代目にあたる。

父榊綽は1823年12月27日(文政6年11月18日)に母の実家相州高座郡下溝に生まれる。1836年から黒田家に仕えるも、1841年公金紛失に関わる冤罪で榊宗家が断絶、失職す。

1849年杉田玄端(1818-89玄白の子立郷の養子、蘭方医、宗家玄白の家を継ぐ、一時沼津に滞在)の塾に入り、蘭学をはじめ、翌年には杉田成郷(1817-59 立郷の子で玄端の義兄、蘭方医)の塾に入り、蘭学を習う傍ら蘭書によって西洋画を研究。津藩藤堂公の肖像を当時珍しい油絵で描いたことで藤堂公に仕えることになり、公の命で海防視察に当り又、米国使節ペリーの会見場の見聞を絵と文とをもって報告したりした。

露国使節プチャーチンが1854年(安政2年)11月下田へ入港した時、私個人の立場で箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)(東大精神・神経科3代目教授呉秀三外祖父、1799-1863、津山藩士、幕臣、蘭学者、蕃書調所の首席教授、翻訳に当った分野は医学・語学・天文・物理・兵法・歴史・地理と多面にわたりわが国の西洋学問の導入に多大な貢献)に同伴、この時銀板写真術を習い、後杉田成郷とはかって写真器製造の成功をはじめロシア語入門書(魯西亜字筌)を1856年に著すこととなる。

1856年(安政3年)、幕府の鷹師山田一郎の長女こうと結婚、翌年に善太郎後の俶がうまれた。1857年、幕府は外国の学芸を調査・研究・教育するための教育機関として蕃書調所を開設。外国書籍の活版を行うべく召集され、1858年蕃書調所活字御用出役を命ぜられ鉛板印刷を行った。この後、開成所(蕃書調所→洋書調所→)で蘭学・西洋画・印刷の任に当たり、1867年(慶応2年)には幕臣旗本格として富士見御宝蔵番格、開成所活字役となる。

江戸開城に伴い、明治元年(1868年)10月28日、駿府に移住し静岡学問所3等教授格に任命されていたが同年12月沼津兵学校書記方及び「図学方兼勤」として沼津へ転勤を命じられる。3等教授として明治5年(1872年)の廃校まで沼津に在勤。以後東京に移り、海軍省に勤務したが、数か月で太政官地誌課に転じた。幕末より舶来の機械で「石版の実験」を行い、「活版石版の我国における始祖」ともいわれる。

1877年2月に地誌課が廃されて退職した後仕官しなかった。その後、もっぱら博物標本(主に骨格標本)に従事する他、絵を描き、謡曲をうたい、幸せな晩年を過ごし1894年(明治27年)1月24日満70歳で死去。

著書には「火技全書図(1855)」「魯西亜(ろしあ)字筌」等、西洋画・印刷・写真術・ロシア語・測量・標本作成など多方面に先鞭をつけた。

母こうは1830年7月28日(天保6年6月9日)鷹師山田一郎の長女として駒込千駄木に生まれる。数え16歳で伏見宮家から降嫁の清水家後室につかえ、御使番頭をつとめ数え27歳で嫁ぐ。維新の困難な状況下、三男二女の母として三人の医学博士及び医学博士の妻となった二人を育て上げたばかりか、精神病者慈善救治会を生み出す母体となった私立大日本婦人衛生会設立の発起人でもあった。肝のすわったしっかり者をあらわす性豪遭のエピソードとして、夫の留守中に抜刀して乱入した者を一身をもって三児を救い、その者を退去させたという挿話が残されている。

 

 

相馬事件:榊俶が書いた「診断書」

我国における最初の司法裁判での精神鑑定書

 

 相馬誠胤が、医科大学第一医院に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日までの41日間でした。

 

 その主任医となったのが、榊俶で、ベルツ(帝国大学医科大学教師)と佐々木政吉(帝国大学医科大学教授)が、その「診断書」に同意しています。

 

「診断書」の前文が、「国家医学」誌に掲載。

 

 診 断 書

 

麹町区内幸町一丁目六番地

東京府華族 縦四位 相 馬 誠 胤

嘉永五年八月生

 

右は明治二十年三月十日帝国大学医科大学第一医院に入院し同年四月十九日に至る在院中の症状並に既往症に依り左の如く診定す。

(遺伝暦)遺伝暦は青か綱三より出さしめ猶ほ誠胤へも訊問して定むる所なり即ち誠胤の血族中殊に母方には精神及脳病の系統あり父方の祖父は弘化二年に於いて中風症に罹り五十歳にして卒す。又母方にては誠胤の祖父母共に卒中症にて死し。母は二十六歳の時より発狂して治せす終に四十歳に至り卒中症にて死し。其弟(即ち誠胤の叔父)は平素狂人に齋しき所行ありて明治十七年六月より発狂し十八年九月本郷癲狂院に於いて死し。其妹(叔母)は明治七年発狂し後ろ癒へ同十一年肺炎症にて死去す。

(既往症)幼児の際数回痙攣を発せしことあり又性来癇癖の気質ありて小事に付き憤怒し易すしと云ふ。其他脚気及背癰を除くの外曾て重症に罹りしことなし。明治九年頃より些事に疑心を起して憤怒し往々乱行あり。愛憎喜怒常に定らす。侍士侍女を呵責し憤怒すること枚挙に遑あらす、若年の時頻りに酒飲ませしも此時より禁酒せりと云ふ。十二年春以来病状大に増進し其四月一室に鎖錮するに到れり檻内にては平時は沈黙して人と接するを忌避するか如しと雖も発作時に至れは器具を擲ち高声に朗吟し仏教を誦する等総て躁狂病を呈す。十七年中頻りに独語し人を殺さんとするの状ありと云ふ、明治二十年三月十日医科大学第一医院に入院す

(現在病)三月十日検査する所にして兄其要点を擧く体格中等栄養佳良にして皮下脂肪良く発育し顔面は稍や蒼白にして容貌少しく怒気を含むものの如し、頭蓋は稍や屋背形を為し膝蓋腱反射機全く消失す、又精神の異常を擧れは記憶力の僅に減衰すると感情の遅鈍なるとの他別に病状なし。

(入院中経過)自最初六日間は別に癲狂状のことなし、只夜間安眠せさると便秘あるとを訴ふるのみ、午前j主に臥床に在りて新聞等を読み、或は何事をもなさす獨り安臥し、午後は遊歩沐浴等をなす。十六日に至り擧動活発となり音声悄々高く多弁となる、加之夜間往々幻聴を起す、例之天井に男女の声ありて雑話せりと云ふか如きあり 身体の擧動甚た不安となり、或は廊下に走出して急に便所に至り、或は室に帰りて足踏す、若し其故を問へは空気濃厚となり咽喉部に苦悶を覚ゆ故に此行をなすと云へり 顔面は紅を潮し眼光鋭くして濕潤せる如く 脈は百二十博を数ふに到れり、此症状漸々増進し廿二日の夜卒然看護人(大学の小使)の両耳を捕へ爪を以て外傷を負はしめ甚しく出血せしむ。又暫時にして再ひ顔面に負傷せしむ、其故を問へは日彼の小使は顔貌狸の如くにして時々室内を窺ふを以て如此處置せり、別に原因あることなしと、二十五日諸症減退し彼の暴行を悔悟せり。四月二日頃再ひ幻聴を発し精神活発となる、四日夜起て暴行せんと欲す、依って投薬し種々説解を加へて漸く安静ならしむ。夫れより病勢悄退せりと雖も十日の夕刻に至り一の原因なくして飯杓子を以て看護人(患者方より附添へ)の頭部を打ち負傷せしめ出血甚たしく終に外科施療を行ふに到れり 其后精神常に復し大に悔悟し状を呈はし今日迄暴行なし。

(診断)以上掲載する者を総括するは誠胤は神経病家の血統にぞく屬し齢二十六歳の時より発病し今猶ほ精神病に罹る者とす 之に医学上の名称を附すれは時発性躁暴狂なる者とす。而して遠因は遺伝暦に依り明瞭なれも近因は不明なり。

右之通診断士候也

明治二十年四月十九日

主治医 帝国大学医科大学教授 正七位 榊 俶 印

右は拙者共に於ても同意に候也

帝国大学医科大学教師 ベルツ

帝国大学医科大学教授 従六位 佐々木政吉 印 

 

 

 

俶の留学中のことについては森鴎外の「独逸日記」(1884-88)での記述がある。

それによると、俶は鼻筋がとおり、額がひろく、日本人ばなれの顔でもてたらしく親しい女性も出来た様である。

明治18年(1885年)3月、留学満期を迎えるも1年延期となり法医学、電気療法の勉学を推し進めた。

留学時代直接指導をうけることが最も多かったのはベルリン大学メンデル教授 進行麻痺、司法精神医学を深く研究。カール・ウェストファール、エルプ、オイレンブルグ 等、精神病学及びその近接の諸学科を広く研究した。

1886年(明治19年)5月4日ベルリン大学留学を終え、オーストリア・ドイツ・スイス各国の精神科病院を見学し途中ミュンヘンでは森鴎外とも会って10月21日に横浜へ帰国。

11月11日文部省へ出頭し医科大学教授に任ぜられる(当時満29歳)12月03日日記に本日より医科大学講義を始む、第1回講義と記される。

我国で精神病学が講じられたのはお雇い外国人教師W・デーニツ(解剖学者)、E・ベルツ(生理学・内科学)がいるが、いるがいずれも専門の精神病学者ではなかった。日本人で精神病学専門家が講義をはじめた記念すべき日。

1887年(明治20年)3月10日相馬事件として知られる子爵相馬誠胤(福島県相馬藩の旧藩士)俶の診察を受けるべく医科大学第一医院に入院。

4月19日付で俶が主文を書きお雇い教師ベルツ及び教師佐々木政吉が連署した診断書は我国における最初の精神鑑定書といえる。併せて「退院後の取扱心得は」自宅療養可、鑑鎖は不可とし、俶の精神病疾患患者処遇についての考え方の一端があらわれている。

1887年(明治20年)5月2日東京府癲狂院を中井前院長から引き継ぐ、治療を医科大学が負担することになったことに、伴うもの、これは当日精神科では外来医療が殆ど否定されていたことにより臨床講義用の患者をだすためには、病院がどうしても必要だった。

5月30日、第1回の臨床講義を癲狂院内で行う。これは精神病学の臨床講義として我国最初のもの。

1889年(明治22年)3月1日俶の意見により院名を東京府巣鴨病院と改め癲狂という文字をとりさる。

1890年(明治23年)8月24日文部大臣より医学博士の学位を受く(第22番目の医学博士)

 9月18日院内患者に作業治療をとり入れる。俶は精神科病院の運営の改善に尽力患者の待遇を従来の閉鎖的拘束状態から不羈束的開放的とし自由に庭園に出て散歩することを許し種々の運動器具を備え、小室には琴・三味線、五月由美等の備付も行い、随時之を用い楽しめるようにする等の人道的配慮がなされたものに改善を図った。院内での看護士に患者の看護法などについて講義をも開いた。

1893年(明治26年)9月11日講座性がしかれ、最初の精神病学講座担任を命ぜられる。

この相馬事件では俶も取り調べをうけるなど又証人として東京地裁に呼び出しを受けるなどの関わりをもたされたが、日本では精神病患者がかってに監禁されるなどの報道が海外にまで報じられたことから、条約改定の完成を目指していた明治政府は1894年(明治27年)7月9日東京府が正式に俶を東京府巣鴨病院院長 ◎ 属記、これで従来帝国大学と病院との関係が明確化されておらなかった院内制度が整備された。

1895年(明治28年)11月21日在職十年祝宴開催される。年末より俶の病(食道癌)がはじまっていた。

1896年(明治29年)3月30日正大位に叙す。

 4月30日呉秀三が医科大学助教授に任ぜられる病進行するなか6月12日、26日・9月11日東京医学会で朝痺狂についての研究発表を行う、11月末頃、最後の講義を行う(首に白き布を巻きつけ、体はやせ、せきこみながらの最終講義であった)1897年(明治30年)2月6日逝去(満39歳)病名は食道癌、組織学的には扁平上皮がん。

死去の前日を見舞った三浦教授(病理学)に吾が死したる後、願わしば大学生の眼前にて遠慮なく思う存分に解剖して呉れと述べた。死去の日午後2時45分から三浦の執刀の下、学生臨席のまえで先生の遺体は解剖され、これが医科大学教授遺体解剖の第1号となった。

業績

日本における臨床精神病学の礎石を築く。

近代精神医学は、その初期から司法精神医学を中心のテーマとし、日本において司法精神医学を創設。

相馬事件において最初の精神鑑定書を作成。

精神医療のあり方、看護の取り扱い方などに改善と人道的と配慮をとり入れ、無拘束開放制の導入、作業治療の導入、看護人の教育などを東京府巣鴨病院運営にとり入れた。

理学・数学を得意とし、在独中得た統計調査法をとり入れ巣鴨病院臨床資料を下に日本人の精神病発病年齢麻痺狂との関係進行性麻痺狂の原因、狐つき病について研究発表を行う。

東大医学部の草創期にあって初代の精神医学教室の基盤を作り、幾多の優秀人材を育て全国に精神医学の種をまき、特に2代目片山國嘉教授、3代呉秀三教授を背したが壮年で死去した為、我国近代精神医学の基礎の確立、又その志は呉秀三に引きつがれることとなった。

 

 

 

真野 文二

文久元年幕臣真野肇の子として江戸に生まれる。父とともに沼津に移住し、親子でそれぞれ兵学校と附属小学校に入学した。附属小学校から引き続き集成舎変則科で学び、明治7年上京して、翌年工学寮(工部大学校の前身)に入学した。14年に工部大学校を卒業し、同校の助教授となり、19年にはイギリスに留学してグラスゴー大学で機械工学を学んだ。22年帰国し、帝国大学工科大学教授に就任、24年には工学博士となった。明治34年から大正2年までは文部省実業学務局長兼東大教授として、我が国実業教育の振興に尽力した。大正2年から同15年までは九州帝国大学総長をつとめ、同大学の総合大学化を推進した。昭和2年には貴族院議員、同14年には枢密顧問官に挙げられ、同21年に亡くなった。




 真野文二の生涯とその功績

 文久元年幕臣真野肇の長男として江戸に出生。父とともに沼津に移住し、親子でそれぞれ兵学校と附属小学校に入学した。附属小学校から引き続き集成舎変則科で学び、明治7年上京、翌年工学寮(工部大学校の前身)に入学。14年に工部大学校を卒業、同校の助教授となり、19年にはイギリスに留学してグラスゴー大学で機械工学を学んだ。22年帰国、帝国大学工科大学(工部大学校が東大に合併)教授に就任、24年には工学博士となった。その間、イギリスの権威ある技術者の会(.Mech.E)の会員に推薦、明治30年に機械学会を設立。その経緯は、イギリスへ留学時代、大学学位以上に尊ばれているI.Mech.E(イギリス機械学会の会員)に一驚し、日本にも権威ある機械学会が必要であると痛感し、帰国後、有志とはかって学会創設の準備にとりかかり明治30612日に正員72名による総会を開催し創設した(博士36歳の時)。明治34年から大正2年までは文部省実業学務局長兼東大教授として、我が国実業教育の振興拡充に尽力した。この間、415月九州帝国大学工科大学の創立準備委員として、場所の調査、建設設備等その創立事務に当たり、九州帝国大学の創立とともに、その初代総長に擬せられた。また425月には東京高等商業学校事務取扱として、同校の商科大学昇格問題にともなう紛擾を、老練の手腕をもって平和裡に処理している。時の山本権兵衛内閣は、文官任用令の改正、行財政および税制の整理を企図し、行財政の整理の主眼は局課を廃合し官吏を減じ、執務の系統を正すことにあった。文部省ではこの行政整理の結果として実業学務局を廃して(大正2613日実施)、専門学務局に合併することとなり、実業学務局長真野文二は、山川健二郎の後を襲って九州大学第2代の総長となった。

大正2年から同15年までは九州帝国大学総長として、同大学の総合大学化を推進した。専門は工学だが、教授で実業学務局長も勤まる器用な人柄であることから、大正82月には医科大学、工科大学はそれぞれ医学部、工学部と改称、同9年には農学部、大正13年には法文学部と相次いで開設決定、いよいよ綜合大学の実を備えた内容となっていく中、大正12年の暮れ工学部本館が全焼、翌年7月には医学部の特診事件、続いて臨床の合同教室、基礎の法医、衛生、細菌3教室の2度にわたる怪火事件や不祥事件が続発、大正153月引責辞職に追いこまれることになった。

 真野は外柔内剛、当たりが柔らかいために外部の評判がよく、文部省の部下にもこまかい所に気を

配るなど人の和につとめ、後進に親切で部内の信望は高かった。学内運営は、諸施設の充実整備はもちろん、教官は活発に研究を続け、相競って成果を世に問うていたが、この内に貯えられた学術上の蓄積は、新知識として学外一般に提供されることとなる。文二の九大発展時代の総長としての功績は大きいものがあった。

 昭和2年には貴族院議員、同14年には枢密顧問官に挙げられ、同21年に亡くなった。

 

 

 ●工学博士として携わった主要事業

 文二は機械工学、特に暖房空調(当時蒸気機関がメイン)装置・設備の設計・工事に卓越していた。

主要事業 東京御所造営に係る暖房機械装置 東京大学校舎内建物に係る暖房機械装置 東京・大阪郵便電信局に係る暖房機械装置日本銀行施設に係る暖房機械装置 寒冷地に於ける兵営建築に関する暖房計画

 その他、海軍省・司法省・裁判所・衆議院等多々関与する

 ●文部省実業学務局長時、文部官僚として実業教育の拡充・発展に手腕を発揮

 今日、日本が技術立国として、又先進技術保有国として世界をリードするに到った礎となる技能・技術の木目細かい専門教育システムを作り上げた功績は大

 明治期における実業分野における教育体制

 ・高等実業高校として(工業) 東京高等工業(東工大) 大阪高等工業(阪大工学部)

 (商業) 東京高等商業(一橋大)

  (農業) 札幌高等農業(北大農学部)

 ・工業専門 京都・熊本・名古屋・仙台・米澤・秋田・桐生

 ・商業専門 山口・長崎・小樽・神戸

 ・農業専門 盛岡・鹿児島・上田

 これら専門校は今日の地方国立大学の前身を形成している

 ・実業学校 377校→7,905校 ・実業補習学校 211校→7,383

        

「雅号」 蜂聲

「趣味」 和歌・謡曲・囲碁(古希の時に歌集蜂聲集を親しい知人に配布)

 

「家族」妻・咲子(明治元年7月生、東京府士族勲五等、米国神学博士日本基督教会同盟会長井深梶之助妹)長男・正雄(明治163月生、工学士)同妻・久米(明治251月生、東京府平民工学士菅田繁長女)孫・錬一(大正212月生、長男正雄長男、千葉医大卒医者)同久子(大正41月生、同長女)は東京都伊東正保に、同和子(大正91月生同次女)は清水達夫に嫁ぐ、妹・あい(明治57月生)は茨城県平民石井藤右衛門長男、工学博士、工学士石井敬吉に、同たま(明治910月生)は東京府士族飯野忠一長男、法学士飯野謹一に、同きく(明治169月生)は岡山縣士何某に嫁ぐ。

 真野文二の九州大学における事績

 ー医科・工科大学から総合大学に向けて尽カー

 1879 明治124月 県立福岡医学校、創設

 1888 明治2141日 県立福岡病院、開院

 1900 明治33126日 第14回帝国議会に九州・東北帝国大学設置建    議案提示

 1903 明治36324
 京都帝国大学第
2医科大学を福岡に置き、京都帝国大学福岡医科大学と称する勅令を公布

 1904 明治37324日 本日を福岡医科大学創立記念日と定む
 1910 明治431221日 九州帝国大学を福岡に設置する勅令および九    州帝国大学の官制を定める勅令を公布 施行は翌4411

 1910 明治431223日 九州帝国大学工科大学の開設は翌4411

 1911 明治4441日 京都帝国大学福岡医科大学が九州帝国大学医科    大学となる 理学博士山川健次郎が総長に就任

 1913 大正25月 総長山川健次郎は東京帝国大学総長として転出

 文部省実業学務局長兼帝国大学工科大学教授工学博士真野文二が総長に就任

 1919 大正826日 帝国大学令、改正公布九州帝国大学医科大学・工科大学は

医学部・工学部となり、新たに農学部を設置

施行は41

 1920 大正9828日 農学部に農学科を設置109日工学部造船学科設置

 1922 大正1121日 農学部に農芸化学科・林学科を設置前年には附属農場を設置

 1923 大正121226日 工学部本館、全焼

 1924 大正13925日 法文学部を設置

 1925 大正14713日 附属図書館が竣工 特診事件が報道される

 1925 大正14830日 医学部第1・第2・第3内科、第1外科、整形外科等全焼

 1925 大正1499日 医学部衛生学、法医学教室が全焼細菌学教室が半焼

 1926 大正15319日 総長工学博士真野文二は、願いにより本官を免ぜられる

 1926 大正15531日 九州帝国大学名誉教授の名称を授く

 沼津兵學校創立七十周年記念會に於て

 工學博士 眞野文二

 御當地に参りましたのは明治元年で私は八歳の時であります。私の古い記憶を呼び起しますと・私共は品川より艀丹で沖へ出て、黒船に乗換へ清水港に上陸しました。此の黒船と云ふのは多分賃借した米國汽船で美屋古丸と命名したものと思はれます。私は清水より租母と一所に駕籠に乗せられて沼津に着きました。處が沼津は一時に多數の奮幕臣が殺到したものでありますから、今日で云ふ超満員で、宿屋も下宿も、叉明間もありません。佳む家さへもありません。そこで私方では可なり離れた金岡村西澤田の後藤壽作氏の隠宅を借受け假寓致しました。是より父は日々沼津へ通ったのであります。けれども不便でありますので、間もなく五東松(後藤松と思われる)に茅屋を新築致しまして引移りました。先程佐久間・山出兩氏の御案内で五東松の奮宅を見に参りました庭、今は城の壕も埋められ、跡方もなくなって、當時鶯の聲を聞きました壕向ひの竹藪が少し残って居るのみであります。尤も三十年程前に御當地に立寄って見ました際は、私の奮宅は尚ほ現存して居りましたが、大正二年の火災で焼失したといふことを聞き、甚だ残念に思って居ります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・小學校時代の私の學友としては、小田川工學博士・加藤大將・山口中將・田邊博士・渡瀬兄弟・渡邊朔氏等可なり澤山の人を記憶して居りますが、田邊博士の外皆何れも故人になられました。

 遊び場所としては香貫山、愛鷹山の山登り、桃郷の桃の花千本松原の観世音、我入道の水泳、原の植木屋等がありました。就中愛鷹山の馬狩りは最もよく記憶に残って居ります。

此の馬狩りに就いて面白い逸事があります。それは私宅の下男長八なる者が或る日持山の薪を取りに行くと言って朝出たなり、午後になっても夕方になっても帰って來なかつたのであります。大騒ぎとなりまして八方へ人を出し捜し廻ったのでありますが少しもわからず、眞夜中になって長八は帰って來たのであります。一日中何をして居ったのか尋ねても分りません、其の日は馬狩りがないにも拘らず、今日は馬狩りで大攣の人で帰ることが出來なかつたと云ふのみで、馬狩りの場所を俳徊して居る處を見たと云ふ人もありますが、どこをどう歩き廻ったものか一向わかりません。衣服は汚れたり裂けたりして居り、草鞋も一方はなくなつて居ると云ふ有様です。其の後長八は何食はぬ顔をして居ますが、心の落ちつき

がなく何だかボンヤリして居り又昂奮する時もありました。人々は長八は狐に化かされたに違ひないと謂つて一時は多くの人の話題を賑はしたのでありますが間もなく死にました。

 當時沼津の教育は盛大であって、他藩より學びに來る者が可なり澤山あつたことは、米山氏の著書や山出・大野兩君の記述にも明かにされて居りますが、當時私宅へ塾生として東京より二人來て居られました。今日では東京へ留學に行くと云ふのが、其頃は逆に東京から沼津へ留學に來たと云ふことは、如何に沼津の教育が當時盛んであつたかと云ふことを物語るものと存じます。又生徒にも俊秀なる者が甚だ多かったのであります。故に兵學校のあつた當時は勿論、其の後に於ても當時の沼津は文化の淵叢として、東駿の地のみならす全國的に見ても極めて重要なる地位を占めて居たのであります。其の結果沼津の教育文化は其の後大いに光輝を放ち、海陸軍を始め學界其の他の方面に有数の人物を出し本邦の國運の發達と文化の興隆とに寄與する所多大でありました。(眞野文二寄稿文抜粋)


 

田辺 朔郎  

文久元年幕臣田辺孫次郎の子として江戸に生まれる。沼津兵学校一等教授方田辺太一の甥にあたる。明治2年叔父に従い沼津に移住し、翌3年附属小学校に入学した。明治5年上京、工学寮に入学し、16年に工部大学校を卒業した。卒業の年、京都府知事北垣国道に見込まれ、弱冠23歳で琵琶湖疎水工事を委嘱され、明治23年にその大工事を完成させた。長大なトンネル・傾斜軌道(インクライン)による舟運・水力発電所などの技術は、国内ばかりでなく世界的にも注目を集めた。明治23年帝国大学工科大学教授となり、翌24年には工学博士となった。その後北海道鉄道敷設部長や京都帝国大学理工科大学教授・同工科大学長などをつとめ、京大名誉教授の称号を授けられた。大正4年に関門海峡の海底トンネルを設計・立案したことも注目される。昭和18年没。

3月25日田村喜子講演記事

土木の人田辺朔朗

田邊朔郎・中村英夫氏解説


18年3月「田邊朔郎展」写真集

20年5月15日「日本の近代遺産50選」日経

 

山ロ 勝

文久2年幕臣山口千造の子に生まれる。維新後沼津近傍の鳥谷村や東沢田村に移住。附属小に学んだ後上京し、陸軍幼年学校・士官学校に入学。以後軍務局砲兵課長・重砲兵監などとして、陸軍の砲兵分野に功績を残した。大正2年中将に進み、昭和4年退役。日仏協会・大日本国防義会・静岡育英会などの団体にも関係し、昭和13年没。

 

渡瀬 寅次郎

安政6年江戸に生まれる。附属小から集成舎変則科で学び、明治9年開拓使の官費生として札幌農学校に入学した。同校ではクラークの薫陶を受け、キリスト教に入信した。卒業後は開拓使や農商務省に奉職したが、やがて教育界に転じ、水戸中学校長・水戸尋常師範学校長・東洋英和学校教頭・東京学院院長などを歴任した。

また大日本農会や東京農学校に関係したほか、明治25年に東京興農園を創立し、種苗・農薬・肥料・農具・農業書の販売や農場・果樹園の経営を行い、農業の振興と農業思想の普及につとめた。キリスト教界にも貢献し、東京YMCAの理事などもつとめている。大正15年没。

平成19年3月渡瀬寅次郎展開催・写真集
平成19年3月渡瀬寅次郎パネル

 

加藤 定吉

文久元年幕臣加藤泰吉の子に生まれる。附属小から引き続き集成舎変則科に学ぶ。上京後海軍兵学校に入学。軍人となる。日露戦争では春日艦長として日本海海戦に参加、第一次世界大戦でも第二艦隊司令長官として青島攻略に参加した。海軍教育部長や呉鎮守府司令官などもつとめ、大正5年男爵、同7年大将になる。昭和2年没。兄泰久も兵学校出身で陸軍少将。

 

西 六郎

万延元年林洞海の子どもとして生まれ、西周の養子となった。附属小学校で学んだ後上京、海軍兵学校に入学し、以後軍人として活躍し、中将・男爵・貴族院議員・宮中顧問官となった。昭和8年没。

 

杉田 盛

元治元年生まれ。沼津病院頭取杉田玄端の5男。杉田成卿一廉卿家の嗣子となる。附属小から集成一舎に学び、上京して帝国大学医科大学を卒業した。昭和9年に没するまで、神戸・丹後・隠岐・盛岡・横浜・大森などで医師をつとめた。

 

小田川 全之

文久元年生まれ。幕臣小田川彦一の子。沼津添地2番地に住み、附属小学校から集成舎変則科に学び、上京後工部大学校を明治16年5月卒業。群馬県御用係、東京府御用係として土木事業に従事後、明治23年古河財閥に入社し、院内銀山や足尾銅山に勤務した。クリスチャンでもあった彼は、足尾鉱毒問題では会社側の立場からその解決に尽力したようである。古河家の重役を長年つとめる一方、工学博士として土木工学界の権威でもあった。昭和8年没。

小田川全之年譜(おだがわまさゆき

文久 元年(1861)  222日旧幕臣小田川彦一(18281907、旧名彦助、御賄御膳役より幕末には小筒組肝煎となる)長男として江戸小石川に生まれる。

明治 元年(1867)  一家は沼津添地2番地に移住。(父彦一は明治2年郡方捕亡役{警察官}を務める)

明治 3年(1870)  沼津兵学校附属小学校に入学。

明治 6年(1873)  沼津兵学校の廃止と共に附属小学校は集成舎と改名され変則科に学ぶ。

明治 7年(1874)  変則科課程の終了を契機に一家は沼津の地を引き払い、父の赴任先印旛、熊谷に移る。熊谷で暢発学校の教鞭を執った事もあった様だが一時的なものであった。

明治 8年(1875)  東京英語学校に入って英語を専修。

明治10年(1877)  工学寮に入学、土木工学を専攻、同期同科には沼津時代の同輩田辺朔郎が在籍。

明治13年(1880)  工部大学校在学中より基督教を信仰、2月タムソン師より洗礼を受け新栄教会会員となる。

明治17年、全之の熱意に動かされ父母とも前橋教会海老名弾正師より受洗、信者となる。

明治16年(1883)  5月、工部大学校土木工学科卒業し工学士となり、卒業後父の任地前橋に赴き群馬県御用掛を務め両親と同居。

明治19年(1886)  一家を挙げて東京に移り東京府御用掛として土木事業に従事。

明治20年(1887)  217日菊池むつと婚姻。工務所を開業し私設鉄道、その他民間土木事業に関係。

明治22年(1889)  父隠居の後を承け家督を相続。又、近藤陸三郎と共に一年間欧米を遊学、これは古河に入社するに当り市兵衛の計らいで海外先進鉱山技術の見聞をひろめるためのものであった。

明治23年(1890)  古河に入り足尾銅山で土木工作を管掌。3月長男達朗誕生。妻睦子との間に42女もうける。(長男は後、京都大学工学部教授工学博士、妻は三井本家三井鉱山初代社長・会長三井三郎助高景の娘、次男芳朗には古河市兵衛三女照子が嫁ぐ)

明治24年(1891)5月 育英黌校(後の東京農業大学)総長の榎本武楊の推挙により9名の講師の一人に任命され、古河財閥の技師を兼務しながら勤務した。(明治史料館1999年10月、資料館通信)

明治30年(1897)  足尾銅山鉱毒予防工事を担当。この年足尾鉱業第6代所長に就任した近藤陸三郎は狐崎・小田川を次長に任命する。180日の命令期間中に幾多の予防に関する難工事を完成。

明治33年(1900)  近藤陸三郎と共に約1年間再び欧米各国を視察し、帰朝後先進技術を相次いで導入。

明治36年(1903)  本店理事となる。

明治37年(1904)  市兵衛の息子虎之助(3代目社長)の米国コロンビア大学予備校のホレスマン・スクール留学に伴い、その補導役(教育係)となり4年間終始随伴す。この滞在中に採鉱・精錬技術の調査・習得と共に当時米国で広がり始めていた安全思想を知る。

明治39年(1906)  虎之助に同行して欧州各国の土木鉱山事業を調査見学のため視察。

明治40年(1907)  9月父彦一死去、虎之助が年齢20歳に達したのを区切りに4年間の米国留学に終止符、12月共に帰国。新しい技術と安全思想を持ち帰る。

明治42年(1909)  足尾鉄道()創立、取締役に就任。以後、国有鉄道となる大正7(1918)まで社長を務める。

明治44年(1911)  足尾鉱業第10代所長兼務。

大正 元年(1912)  米国での安全運動標語を「安全専一」と翻訳し安全第一運動を始める。坑口・坑内・工場の各所に「安全専一」と書かれた掲示板を掲げ事業所ぐるみの安全運動の先駆となる。

大正 2年(1913)  古河合名会社理事に就任。

大正 4年(1915)  工学博士の学位を受ける。

大正10年(1921)  4月還暦を期して後進のため古河合名会社を引退、以後古河銀行監査役に就任、日米学術協会、東京地学協会、土木学会、工政会、東洋協会、帝国鉄道協会などの会員を務める。

昭和 6年(1931)  古河銀行が8月に解散・清算することになり、清算会社の監査役を勤める。

昭和 8年(1933)  62972歳で没す。



(小田川彦一(1828〜1907) 旧名彦助、俳号は莱仙堂鳳嶺。御賄御膳役をつとめた幕臣で、幕末には小筒組肝煎となり、維新後沼津添地2番地に移住、静岡藩の郡方捕亡役に就任した。廃藩後は印旛・熊谷・群馬の諸県に奉職。沼津兵学校附属小学校や工部大学校出身の工学博士小田川全之はその息子。1884年海老名弾正から洗礼を受け、前橋教会や東京の新栄教会の執事・長老をつとめた。)



『(「横浜国立大学 安心・安全の科学研究教育センター」花安 繁郎氏助言より)

20年3月22日花安繁郎博士講演資料

 20年10月「平成19年度横国大安心・安全センター年報 花安博士レポート」
=(花安氏提供画像)
旧幕臣小田川彦一(同墓)の長男として江戸小石川に生れる。 1883(M16)5月工部大学校土木工学科を卒業してから1886まで群馬県および東京府御用掛として土木事業に従事し、 1887〜1890までは私設鉄道、その他民間土木事業に関係した。 1890(M23)古河家に入り足尾銅山で土木工作を管掌し、1897足尾銅山鉱毒予防工事を担当した。 1900欧米各国を視察し、帰朝後も引続き足尾銅山に在勤したが、1903本店理事となり、 1906、1907に欧州に遊んで各国の土木鉱山事業を調査見学した。
 アメリカに銅の採鉱と精錬技術の調査に訪米した時に新しい技術と一緒に持ち帰った土産として「安全専一」と翻訳したスローガンである。これは1915(T4)「安全専一」と名づけた作業心得を作り作業員全員に持たせるまでとなり、"安全必携"(安全第一)の先駆者となった。
 1911(M44)から足尾鉱業所長を兼任した。それより先1909足尾鉄道株式会社を創立して取締役に挙げられ、1918(T7)国有鉄道をなるまで取締役社長として事業に尽瘁した。 1921(T10)4月還暦を期して後進のため古河合名会社から隠退したが、なお(株)古河銀行監査役の外、各種土木学会その他の会員として、鉱業発達史上に重大な役割を演じた。 1915(T4)2月工学博士の学位を受ける。

<日本人名大事典など>
<MATSU様より情報提供>


「安全第一」の由来

1906年、アメリカのU.Sスチール社の会長EH.ゲーリーが、不景気で設備の荒廃が見られ、労働者の災害が多発していた事から、経営方針をそれまでの「品質第一、生産第二、安全第三」から「安全第一、品質第二、生産第三」と改め安全作業に関する施策を強めたところ、それにつれて製品の品質も生産量も向上したことから、以後「安全第一」が企業理念にされるようになり、世界的に定着するようになりました。日本では、1914年にこれを「安全専一」(せんいつ)と訳し、足尾銅山の現場に導入されました。

 

◇安全運動の先駆者たち

最初に輸入されたのは足尾銅山だった。大正元年、アメリカに銅の採鉱と精錬技術の調査に訪米した技師の小田川全之が、新しい技術と一緒に持ち帰った土産だった。「安全専一」と翻訳された。これを書いた赤い楕円形の標示板が坑口や坑内、それに工場に掲げられた。小田川はその後、足尾鉱業所の所長となり、大正4年には「安全専一」と名づけた作業心得を作り作業員全員に持たせた。"安全必携"の最初であり、昭和初期まで鉱員に親しまれた。(「安全衛生運動史」中央労働災害防止協会編)


 佐久問 信恭

文久元年旗本大久保忠恕の子として生まれる。その後、鳥羽・伏見の戦いで戦死した歩兵奉行並佐久問近江守信久の養子となった。附属小で学んだ後上京し、大学予備門に入った。さらに札幌農学校に転じ、新渡戸稲造・内村鑑三らとともに学んだ。卒業後各地の学校で教鞭をとった。特に熊本の第五高等学校では英語科主任となり、夏目漱石や小泉八雲と同僚であった。大正12年大阪外国語学校教授在職中に没した。優れた英学者として多くの英語関係の著書を残した。

 

渡瀬 庄三郎

文久2年生まれ。昌邦・寅次郎の弟。上京後、東京英語学校・札幌農学校・東京大学に学ぶ。またアメリカヘ留学し、動物学を専攻、理学博士となり、帰国後東京帝大教授となる。学術研究以外にも、マングース移殖・養蛙・白アリ駆除などの方面にも功績を残した。昭和4年没。

 

平井 参

安政5年幕臣青柳家に生まれる。最初三河国横須賀の藩立小学校に学び、沼津小学校に転じ継続して集成舎変則科に学んだ。上京後、錦城学校・跡見女学校・東洋英和学校・明治大学などで漢文を教えた。

 

小牧 喬定

元治元年幕臣小牧辰蔵の子に生まれる。維新後富士郡万野原へ移住、後沼津へ転居。集成舎変則科・沼津中学校でも学び、上京して哲学館で倫理学を専攻した。その後富田中学校・日本女子商業学校などで教鞭をとった。実業家大田黒重五郎の実兄。

 

渡部 朔

文久2年生まれ。渡部温の息子。兵学校廃止後父とともに上京、駒場農学校で学ぶ。農商務省に奉職し、ドイツヘ留学して農政学を専攻し、帰国後は農村組合の普及につとめた。父の死後その業を継ぎ、実業界に転じ、東京製綱株式会社・東京瓦斯株式会社などの重役となった。昭和5年没。

 

和田 正幾

旧幕臣。安政6年生まれ。江原素六の世話で沼津の和田家へ養子に入った。開成学校一東京大学で学んだほか、キリスト教に入信し同志社でも学んだ。青山学院や第一高等学校で英語を教えた。

 

平山 順

旧幕府では大砲差図役、沼津移住後は沼津病院調役をつとめた平山鐙の息子。附属小一集成舎変則科で学び、上京後は大学予備門から東京大学に進み、数学を専攻した。陸軍砲工学校・海軍大学校・学習院などで教鞭をとった。弟の平山信は理学博士で東京天文台長になった人。

 

山出 半次郎

文久元年幕臣柳下十助の子に生まれる。附属小一集成舎変則科に学ぶ。沼津・韮山・三島・藤枝・御殿場などの小・中学校で教鞭をとる。植物学に造詣が深く、御殿場地方の薬草研究をまとめたりした。昭和19年没。

 

河野 鍬太郎

嘉永6年江戸に生まれる。附属小で学んだ後、明治6年より教員となり、土肥学校・龍城学校(韮山)・敬身舎(駿東郡東沢田村)などで教え、大正時代まで駿東郡金岡村の小学校で校長・訓導を長くつとめた。

 

福島 忠一

安政元年生まれ。明治2年から5年まで附属小学校で学んだ。明治6年からは、開心痒舎(三島)・新民学舎(下田)・成徳舎(田方郡梅名村)・三島蟹(三島)・韮山中学校一伊豆学校一豆陽学校などで教鞭をとった。

 

柳下 継寧

幕臣柳下十助の子、山出半次郎の実兄。伊豆の小学校の訓導などをつとめ、明治26年下田の豆陽学校在職中死去。

 

永井 利三

沼津移住の旧幕臣。附属小で学んだ後も、兵学校出身の倉林五郎から洋算を学んだ。明治7年に設立された原の小学校又進舎の教員をつとめた。

 

神谷 景昌

旧名多喜三郎。駿東郡元長窪村土着の旧幕臣。付属小に学んだほか、明治3年ころは駿東郡長沢村の勧農塾の教員をつとめていた。後上京し、陸軍歩兵大佐になった。

 

幸田 政方

文久元年生まれ。最初静岡学問所の幼年組に学び、後沼津小学校に移り、引き続き集成舎・沼津中学校で学んだ。沼津・三島や御殿場・北伊豆周辺の小学校で長く教鞭をとった。大正10年東京で死去。

 

赤井 庫雄

静岡藩の軍事俗務方をつとめた高橋晋平の息子。明治11年には韮山講習所を卒業している。明治15年には沼津第五十四国立銀行の取締役に就任した。

 

金田 綾太郎

文久2年幕臣金田房延の子に生まれる。明治4年に附属小学校に入学し、引き続き集成舎・沼津中学校で学ぶ。明治15年からは沼津測候所に技手として勤務し、明治43年からは所長に就任し、昭和5年までつとめた。

 

池谷 学

文久3年生まれ。駿東郡富士岡村・同郡清水村・同郡原町などの小学校で訓導や校長を歴任した。やはり旧幕臣で、附属小の出身といわれる。

 

土戸 翼忠

駿東郡長沢村の勧農塾や沼津中学校で教鞭をとり、沼津の民権結社観光社にも参加。

 

川口 歳門

温習舎・集成舎・大岡舎といった沼津近辺の小学校の訓導をつとめていた。

 

天野 久太郎

駿東郡東椎路村に明治9年に設立された小学校椎路舎の教員をしていた人物。

 

荻生 録造

安政6年幕臣福永清右衛門の子に生まれる。附属小に学んだ後、上京して東大に入学、医学を専攻。その後沼津の医師荻生汀(弘道)の養子となった。明治35年から千葉医学専門学校長をつとめ、同校の発展に尽くした。明治40年には博士号を授与され、眼科医学の権威でもあった。大正3年没。

荻生録造展資料


荻生録造と沼津兵学校周辺の医師たち(樋口雄彦準教授資料)

平成21年4月29日樋口雄彦准教授講演沼朝記事 

 

黒川 正

山田大夢の息子。安政3年生まれ。父とともに関宿藩から亡命する。附属小に学び、明治8年には静岡師範学校教員となる。慶応義塾に留学し、帰県後掛川中学校・浜松中学校・静岡中学校などで英語を教えた。大正6年没。

 

服部 綾雄 

沼津水野藩士服部純の息子として文久2年に生まれる。父の純は幕末沼津藩きっての洋学通・勤王家だった。維新後水野藩は上総国菊問に転封されたが、綾雄は沼津に残り兵学校附属小学校に学んだという。明治5年からは横浜のヘボン塾、引き続き築地大学校(後の明治学院)で勉強した。アメリカに留学して神学を学び、帰国後牧師となった。また、富山中学校長・岡山中学校長などとして教育にも携わり、明治41年には岡山県から衆議院議員に当選、犬養毅の立憲国民党に参加し、政治家としても活躍した。

 

大江 孝之

安政4年徳島藩士大江孝文の子に生まれる。明治5年に慶応義塾に入学するまでの数年問、沼津兵学校附属小学校に留学していたという。明治10年から掛川の翼北学舎で教鞭をとる一方、『静岡新聞』や『函右日報』で自由民権の論陣を張り、演説結社参同社・静陵社を結成。上京後は漢詩人として活躍、大正5年没。

 

古谷弥太郎

駿河 国志太郡小田村(現焼津市)の農民出身の和算家・古谷道生(定吉)の息子。父道生は、幕末に算学をもって田中藩に召し抱えられ、維新後主家に従って安房国へ移住した。弥太郎も父同様算学に優れ、沼津兵学校附属小学校で学んだという。

 

井口 省吾

安政2年駿東郡上石田村(現沼津市)の豪農井口幹一郎の子に生まれる。沼津兵学校附属小学校に学んだ後、上京して中村正直の同人社に入り、明治8年には第1期生として陸軍士官学校に入学した。さらに陸軍大学にも進み、明治20年にはドイッに留学した。日清戦争では第二軍参謀として出征、明治30年には陸軍大学教官。同34年には軍務局軍事課長、同35年参謀本部総務部長となった。日露戦争では大本営参謀や満州軍参謀として活躍した。明治39年には陸軍大学校長、同42年には中将、大正元年には第十五師団長、同4年には朝鮮軍司令官、同5年には軍事参議官・大将となった。大正9年退役。大正14年没。井口は、旧幕臣出身ではない地元出身の沼津兵学校関係者の中では出世頭であったといえる。

 

間宮 喜十郎

嘉永3年沼津宿本陣の子に生まれた。幕末には地元の寺子屋や沼津藩士から漢学や書法を学び、さらに江戸へ出て林大学頭に入門したりした。維新後は旧幕臣たちが設立した代戯館にいち早く入学し、引き続き沼津兵学校附属小学校で学んだ。兵学校廃止後も洋学を学ぶため束京へ遊学し、慶応義塾に入学した。その後地元に呼び戻され明強舎・沼津尋常小学校などの校長をつとめ、沼津の教育に貢献した。彼が沼津尋常小学校長時代の明治21年に同校に設立した「沼津文庫」は、徳川幕府以来の沼津兵学校の旧蔵書を後世に伝えることになった。その他、郷土史・地誌にも造詣が深く、多くの史料を書き残した。明治28年没。

 

影山 秀樹

安政4年富士郡岩本村の豪農に生まれる。附属小学校で学んだほか、甲州の蒙軒義塾でも修学。明治13年富士勧業会社を設立し富士郡の殖産興業を推進したほか、岳南自由党員として自由民権運動にも参加した。県会議員や衆議院議員にもなり、自由党〜立憲政友会の静岡県の有力者であった。静岡農工銀行頭取や静岡新報社長もつとめ、大正2年没。

 

酒井 麟馨

駿東郡今沢村の医師酒井恭順の子として、嘉永2年に生まれる。明治22月から12月まで附属小学校で学び、さらに上京して同人社で修学した。修成舎・有斐館・集慣舎・三事舎など沼津周辺の小学校で訓導・校長をつとめ、明治28年没。

 

城結 無二三

弘化2年甲斐国の村医の子として生まれる。幕末には、大橋訥庵の門に入った。京都では見廻組や新撰組と行動をともにし、鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼戦争に参加。幕臣とともに沼津に移住し、兵学校附属小学校で洋算や語学を学んだという。その後甲州へ帰ったが、カナダ・メソジスト派の宣教師イビーから洗礼を受け、熱心なクリスチャンとして後半生を送った。息子の礼一郎は、麻布中学校の第1回卒業生で、『江原素六先生伝』の著者。

 

瀬川 又之助

安政元年「魚半」という料亭を営んでいた三島の旧家に生まれた。附属小学校で学んだ後、地元の小学校の訓導を一時つとめたが、明治9年軍人を志望して東京の陸軍教導団に入った。翌10年の西南戦争に出征したが、そこで受けた傷がもとで11年に死去した。非常な秀才だったといわれている。詩人木下杢太郎は彼の甥にあたる。

 

中野 啓覚

安政5年駿東郡我入道村の医家に生まれる。附属小学校で学んだといわれ、後東京大学で医学を修め、沼津で開業した。昭和8年没。医師開業免許の医籍第1号の所有者であった。

 

足助 太郎

江川担庵の韮山塾で高島流砲術を学んだ沼津藩士稲垣源治兵衛の子に生まれ、沼津浅間町の豪商足助喜兵衛貞房の養子となった。その後上京して東京商法講習所(一橋大学の前身)に学び、実業家となり、アメリカに滞在したほか、晩年は神戸の鈴木商店の顧問をつとめていた。

 

神部 豊三郎

安政5年駿東郡上香貫村の豪農・地主に生まれた。その後上京して慶応義塾に学んだ。第2代の駿東郡楊原村長となった。