主な沼津兵学校資業生



主な沼津兵学校資業生

 

佐々木 慎四郎(1)

嘉永元年生まれ。開成所に学び、引き続き沼津兵学校に入学した。上京後は、西周の育英舎の塾頭となり、大蔵省に奉職。その後実業界に入り、第一銀行や東京海上保険株式会社の重役として活躍し、大正12年没。

 

吉村 幹(2)

旧名幹之丞。幕末には横浜語学所で学んだという。兵学校廃止後は、甲府の開智学校や伊豆の韮山変則中学校で英語を教えた。その他経歴不詳。

 

荒川 重平(2)

幕臣荒川勇太郎の息子として嘉永4年に生まれる。旧名敬次郎。明治4年中川将行とともに海軍兵学寮に出仕し、以後海軍兵学校や海軍大学校の教官として数学を教えた。また、中川とともに東京数学会社のメンバーとしても活躍し、数学用語・記号の統一と数学書の左起横書に先鞭をつけるなど、日本近代数学教育史上に大きな功績を残した。中川との共著『幾何問題解式』は、我が国最初の左起横書の数学書といわれる。明治40年海軍退官後も、奨学舎の学監として海軍将校志願者の教育に従事し、海軍教育界の恩人といわれた。昭和8年没。

 

石井 至凝(2)

旧名新八。明治24月に兵学校第2期資業生に及第。同年10月徳島藩に派遣され、同藩の教育改革を指導。また大阪兵学寮への静岡藩貢進生の監督役を命じられ、大阪に滞在。後年、茨城県・静岡県・山梨県などで、師範学校・中学校・小学校の教員をつとめた。晩年は横浜税関に勤務し、大正2年没。

 

中川 将行(2)

旧名錠蔵。昌平黌素読吟味に甲科で及第。開成所仏学世話心得・小筒組差図役下役並などをつとめ、維新後沼津兵学校に入学。その後海軍に奉職し、海軍兵学校教官・海軍大学校教官・海軍水路大技師などになり、明治30年没。荒川重平とともに日本の近代数学教育に貢献し、多くの数学書を著した。数学書以外にも、『泰西世説』のような文芸書も翻訳する才能の持ち主だった。

 

永峰 秀樹(2)

甲斐国北巨摩郡浅尾新田の蘭方医小野通仙の子として嘉永元年に生まれる。旧名矯四郎。甲府の徽典館で学んだほか、京都や江戸に遊学。永峰家の養子に入り、幕臣となり、維新時には撒兵隊士として官軍と抗戦した。沼津兵学校では英語を熱心に勉強し、明治4年に上京、荒川重平・中川将行らとともに海軍兵学寮の教官となった。海軍兵学校が江田島に移された後も、明治35年に退官するまで勤続した。アラビアンナイト、ギゾーの文明史、ミルの代議政体論など、さまざまな分野の翻訳書を多数残した。昭和2年没。

 

真野 肇(2)

旧名覚之丞。もと幕府撒兵改役。兵学校廃止後も暫く沼津にとどまり、集成舎の教員をつとめた。明治7年上京し、以後陸軍幼年学校・陸軍砲兵本廠・海軍兵学校・海軍主計学舎・築地工手学校・育英黌などの教官をつとめた。数学関係の著書が多数ある。真野文二はその息子。

 

北山 経乗(2)

旧名庄蔵。経歴不詳。写真の著書がある。共著の小川安村も沼津兵学校付属小学校の出身者。

 

大平 俊章(3)

旧名釧吉郎。代戯館の教官をした後、兵学校の資業生に及第したらしい。上京して私塾や書店を営んだらしいが、詳しい経歴は不明である。写真の著書がある。

 

古川 宣誉(3)

嘉永2年生まれ。旧名善助・郁郎。戊辰戦争では、小筒組差図役として江原素六らの脱走軍に加わり、下総で戦う。兵学校廃止とともに上京、以後陸軍の工兵分野で活躍。日清・日露戦争にも出征し、明治39年中将となった。大正10年没。

 

望月 二郎(3)

嘉永4年旗本望月翁太郎の子に生まれる。維新時には上総に脱走し官軍と戦った。兵学校廃止後上京し、田口卯吉とともに大蔵省翻訳局生徒となった。その後も田口と行動をともにし、その片腕として経済雑誌社を助けた。明治34年没。

 

三田 佶(3)

旧名平蔵。漢学者三田葆光の息子。兵学校廃止後は上京し、陸軍病院で学んだ。明治9年西郷従道に随行し、フィラデルフィア万国博覧会に参列。領事館書記などをつとめ、帰朝後大蔵省に奉職した。明治15年の日本銀行設立に尽力し、以後同行の監事などを長年つとめた。

 

矢吹 秀一(3)

嘉永元年生まれ。旧名恒蔵。維新時には幕府の歩兵差図役下役であった。明治48、月に兵学校を退校し、上京して陸軍士官となった。以後工兵科の軍人として活躍し、西南戦争や日清戦争で戦功をあげた。陸軍中将・男爵となり明治42年没。

 

片山 直人(3)

詳しい経歴不明。兵学校在学中、医学志望のため静岡病院へ転学した。後年は農商務省山林局の官吏になった。写真のような植物学・林学関係の著書がある。

 

鈴木 知言(3)

旧名伴三郎。幕臣鈴木知英の子として弘化元年に生まれる。兵学校廃止後上京し、大蔵省・工部省に奉職。その後日本鉄道会社につとめ、さらに高等商業学校附属徒弟講習所の教授などとして実塚原

 

塚原 靖(4)

嘉永元年幕府与力塚原市之進の子として生まれる。旧名直太郎。兵学校在学中医学を志望し静岡病院に留学した。また薩摩藩の教育改革のため鹿児島へも赴任したという。明治4年には人見寧らとともに静岡に集学所を設立し、後進の指導にあたった。廃藩後上京し、島田三郎が主宰した『横浜毎日新聞』の主筆となり、さらに東京日日新聞社に転じた。渋柿園と号し、明治25年の『敵討浄瑠璃坂』以後、『天草一揆』『由井正雪』『木村重成』『北条早雲』『伊達政宗』『淀殿』などの歴史小説を次々に発表し、明治の代表的大衆小説家となった。歴史小説の大成者といわれる。大正6年没。

 

島田 三郎(4)

幕臣鈴木知英の子として嘉永5年に生まれる。兵学校廃止後上京し大蔵省翻訳局で学ぶ。明治7年横浜の豪商島田家に養子に入り、横浜毎日新聞社を設立して主筆となった。その後元老院や文部省に出仕したが、明治14年の政変で下野。嚶鳴社員として自由民権論を鼓吹し、第1回衆議院議員選挙に当選、以後亡くなるまで代議士をつとめた。立憲改進党などの政党の領袖として、星亨弾劾・シーメンス事件追求・足尾鉱毒問題追求・普選運動などに活躍し、雄弁家として知られた。クリスチャンでもあり、廓清会の会長となるなど、廃娼運動にも尽力した。大正12年没。
参考資料

 

石橋 絢彦(4)

嘉永5年江戸に生まれる。旧名栄作。上京後工部大学校に入学、イギリスに留学した。工部省・逓信省に奉職、建築技師として活躍し、工学博士となった。晩年は幕末維新史の研究に熱心で、『回天艦長甲賀源吾伝』などを執筆したほか、「沼津兵学校沿革」「沼津兵学校職員伝」などの記録を残した。昭和7年没。

 

伊藤 直温(4)

旧名良作。兵学校廃止後上京。順天求合社で数学を学び、また東京数学会社の同人として明治の数学界で活躍した。海軍水路部に奉職し、測量技術に力を発揮し、海軍大技士になった。また明治31年には測地学委員会の委員を委嘱されている。

 

岡 敬孝(4)

旧名確之輔・確造。旗本の子。兵学校の廃止とともに上京し教導団に編入されたが、その後報知新聞社に入社し、記者として活躍した。

 

笹瀬 元明(4)

旧名録太郎。兵学校廃止により上京。三井物産ロンドン支店長をつとめたほか、東京瓦斯会社支配人になった。

 

山口 信邦(4)

天保13年生まれ。旧名七郎。幕末には、向山黄村・武田成章・栗本鋤雲らに学び、維新時は小筒組差図役であった。明治43月兵学校資業生から厚原小学校(富士郡にあった兵学校附属小学校の分校)の教授に抜擢された。廃藩後も同地にとどまり、岳陽舎(現在の富士市立伝法小学校)の教師となり、明治38年まで勤続した。明治43年没。

 

早川 省義(4)

旧名高松次郎。兄高松寛剛も資業生だった。明治5年に教導団に編入後、陸軍陸地測量部に長くつとめ、製図課長・陸軍少将として明治36年に亡くなった。沼津兵学校出身者からは優れた測量技術者が多数出ているが、早川はその代表的人物。

 

佐久間信英(4)

幕臣一色仁右衛門の子として天保11年に生まれる。旧名椿平。向山黄村の実弟にあたる。講武所頭取・開成所頭取などをつとめた佐久問真輔の養子。幕末には砲兵差図役頭取勤方などをつとめた。兵学校廃止後上京、紙幣寮、大蔵省印刷局・帝国京都博物館などに奉職し、明治36年没。

 

神津 道太郎(4)

弘化3年信州に生まれる。父神津充は幕臣となり、維新後駿河に移住し駿東郡長沢村(現清水町)で私塾勧農塾を開き村人を教育した人。道太郎は、兵学校に学んだ後上京、内務省に奉職した。明治23年没。彼は数学者として優れ、『筆算摘要』『続筆算摘要』などの数学書を数多く翻訳・出版している。

 

愛知 信元(4)

旧名三録。弘化元年生まれ。

200石の旗本で田安亀之助(徳川家達)の小姓だったといわれる。兵学校で学んだ後上京、華族女学院の数学教師をつとめ『筆算教授次第』『小学筆算教授書』などの数学書を著した。昭和9年没。息子敬一は、アインシュタインの愛弟子で日本における理論物理学の先駆者であり、東北帝国大学設立の功労者。また、戦後法相・文相・外相・蔵相などを歴任した政治家・故愛知揆一氏は、信元の孫にあたる。

 

吹田 鯛六(4)

嘉永3年幕臣吹田助右衛門の子に生まれる。維新の際は、神奈川兵で構成された旭隊の隊長格として上野に立て籠もり、彰義隊とともに戦った。上野敗戦後も榎本武揚艦隊に乗り込み箱館へ向ったが、船が途中難波したため果せなかった。その後沼津に移住し兵学校に入学、明治34年には鹿児島に赴任して同藩の改革を指導した。上京後は政府に出仕し、明治5年開拓使、同7年内務省、同12年大蔵省・農商務省を歴任し、退官後は翻訳に従事していた。明治29年には八幡製鉄所嘱託となり、翌30年亡くなった。『ウェークフィールドの牧師』などの翻訳書がある。

 

岡田 正(4)

旧名鉦八郎。兵学校廃止後も沼津に残り、集成舎や沼津中学校で英語・数学を教えた。写真は、集成舎時代の翻訳書である。明治19年には沼津中学校の廃止により静岡中学校へ移り、三等教諭となり、明治30年まで勤務した。その後は、伊勢の神宮皇学館で教鞭をとっていたという。

 

中島 静(5)

旧名文次郎。もと歩兵差図役下役並勤方。兵学校廃止後も沼津中学校教諭や集成舎校長などをつとめた。明治19年には上京し、大蔵省印刷局に奉職した。

 

奈佐 栄(5)

旗本奈佐政和の子として嘉永5年に生まれる。兵学校では、資業生に及第するとともに附属小学校の教授方並をつとめた。後開拓使に出仕、北海道の測量に従事する。さらに陸軍参謀本部陸地測量部につとめ、測地学委員会委員の嘱託をうけた。

 

村田 惇(6)

安政元年生まれ。旧名繁太郎。沼津兵学校在学中の明治3年末大阪兵学寮入学を命ぜられた。後上京し、幼年学校・士官学校で学ぶ。フランス・イタリアに留学、陸軍きっての外国通、特にロシア通として知られた。明治42年中将・築城本部長となり、大正6年没。

 

小島 好問(6)

旧名三郎。明治3年末政府の命により沼津兵学校より大阪兵学寮に転学した。明治13年にはフランスに留学した。後陸軍少将にまで進み、引退後は藤枝に隠棲した。

 

永井 久太郎(5)

沼津病院三等医師並永井玄栄の息子。明治4年医学修業のため静岡病院へ行く。後上京し、工部大学校に入学。鉱業を経営した。妹の永井繁子は、津田梅子らとともに渡米した日本最初の女子留学生であり、瓜生外吉海軍大将夫人。

 

人見 留三郎(5)

兵学校廃止後上京、三井物産会社に入社。大阪支店長に任命され、東京支店長の馬越恭平と並び称されたという。

 

喜多山 正誼(5)

旧名由太郎。兵学校廃止後も沼津にとどまり、明治14年創刊の『沼津新聞』の2代目編輯長をつとめたり、明治25年創刊の『岳南日報』の株主となるなど、沼津の言論・出版界に貢献した。耕文社という印刷会社を経営した。

 

秋元 盛之(6)

兵学校廃止後上京、陸軍幼年学校・士官学校に学ぶ。以後、砲兵の専門家として士官学校で教官をつとめ、兵器の改良・開発に尽力する。大佐で退役後は、工科大学の教授・講師として造兵学を講じた。

 

天野 富太郎(6)

幕臣天野可春の孫。兵学校廃止後上京、幼年学校に入学。フランス留学を経て、陸士教官・陸大教官となる。工科大学の講師も兼任し、火工科を専門とした。明治30年没。

 

加藤 義質(6)

旧名金太郎。兵学校以後は、群馬県伊勢崎の郵便局長をつとめたという以外の経歴は不明。兵学校の書記方だった松井甲太郎が書を、画家河鍋暁斎が挿絵を担当した著書がある。

 

田口 卯吉(6)

安政2年江戸に生まれる。幼くして父を失い、幕府瓦解後は一時横浜で商業に従事したが、乙骨太郎乙の勧めで明治2年に沼津兵学校に入学した。兵学校で学ぶかたわら、乙骨に英学を、中根淑に漢学を学んだ。途中医師を志望して静岡病院でも学んだ。廃藩後は上京して大蔵省翻訳局に入った。その後官を辞し、以後在野の学者・ジャーナリスト・政治家として活躍。経済雑誌社を設立して独自の経済論を展開したほか、嚶鳴社に参加して自由民権論を鼓吹した。衆議院議員にも当選し、政治家としても活動、東京市会議員・東京市参事会員などにもなっている。明治32年には法学博士に挙げられた。政治・経済関係以外に歴史学に造詣が深く、歴史雑誌『史海』を主宰したほか、「国史大系」や『群書類従』を編纂し、日本の近代歴史学の発展に寄与した。また実業家としても、東京株式取引所肝煎となったほか、両毛鉄道株式会社を設立したり、南島商会を経営して南洋貿易に先鞭をつけたりした。明治38年没。

田口卯吉の経済観・歴史観・国語観四方氏明治14年政変と東京府中学校規則

田口卯吉の二十世紀論

『東京経済雑誌』(明治三十三年一月十三日号)

「明治三十三年を迎う」

余輩は明治三十三年の文壇に上るに当り、読者諸君とともに振古(しんこ)無比の昭代〔よく治っている世〕に遭遇したるの幸福を祝せざるを得ざるなり、今さら事新く申すも恐れ多き事ながら、中興の天子にして御宇三十三年の久きに及びたまえるは余輩未だこれを聞かざるなり、(中略)去れば陛下の御宇は正しく創業と守成とを兼ぬるものなり、今にしてこれを思うに明治元年より明治十年に至るの間は封建を打破したまうの時にてありき、明治十年より二十三年に至るまでは国会開設の準備として財政を整理し法律を制定したまうの時にてありき、二十三年以後国会開設し国民始めて其意志を政治上に伸ぶることを得て、而(しか)して今日に至る迄(まで)一事の成功せしものなし、もしこれありと云わば則ち征清(せいしん)の一挙これのみ、爾来軍備拡張の事あり、財政紊乱(びんらん)ほとんど拾収すべからず、内閣為に数々交迭(こうてつ)し、議会ために数々解散し、第十三議会に於て増税の目的を遂ぐるに至るまでは、実に静寧の望を得るあたわざりしなり、されば御宇三十三年の久き国家治平にして人民その沢に浴する少なからずといえども、立憲制度の政治史に於ては今日に至るまでは実に創業時代に属するものありしなり、明治三十三年は実に守成時代の第一期に当れり、故に吾人またよろしく時弊を洗除し良制を画策し昭代の美を翼賛し奉ることを期すべきなり、

 

中川 喜重(6)

旧名政一郎。安政元年生まれ。

兵学校廃止により教導団に編入されたが、沼津に戻り集成舎や沼津中学校、さらに静岡師範学校・静岡中学校・韮山中学校で教諭をつとめた。後上京し、農商務省に奉職した。

 

末吉 択郎(6)

兵学校廃止とともに上京、教導団に編入されたが、後沼津に戻り、集成舎・沼津中学校で英語を教えた。江原素六とともにキリスト教に入信した。兵学校時代は田口卯吉と優劣を競ったという秀才。

 

成瀬 隆蔵(7)

旧名範三郎。兵学校廃止後上京し、慶応義塾に学ぶ。その後東京高等商業学校(現一橋大学)の教官として校長矢野二郎を助けたほか、大阪高等商業学校長にも就任。三井の同族会秘書課長や教育部主事、三井合名理事などもつとめた。

 

向山 慎舌(7)

幕臣一色半左衛門の子として嘉永6年に生まれる。従兄にあたる向山黄村の養子となった。兵学校廃止後上京、海軍兵学寮に入学し、以後海軍軍人として活躍。日清戦争では、松島艦の副長として戦功をあげ、その後横須賀鎮守府参謀長・舞鶴海軍工廠長・佐世保海軍工廠長・竹敷要港部司令官などをつとめ、明治43年没。中将・男爵。

 

宮川 保全(7)

嘉永5年江戸に生まれる。明治5年の兵学校廃止とともに教導団に編入されたが、翌年除隊。7年には文部省に出仕し、長崎師範学校に勤務。その後東京女子師範学校東京師範学校で数学を教える。明治19年共立女子職業学校(現共立女子大学)を設立し、以後大正11年に亡くなるまで同校の教育に従事した。その一方で、中央堂や大日本図書出版会社などを経営した。数学関係の著書も多数ある。

 

辻芳 太郎(7)

嘉永6年生まれ。兵学校廃止とともに教導団に編入され上京したが、後静岡県に戻る。静岡師範学校・静岡中学校の教諭をつとめた後、佐野・城東郡、庵原郡、賀茂郡、志太郡、駿東郡などの郡長を歴任した。明治45年没。

 

渡瀬 昌邦(7)

幕臣渡瀬源四郎の子として、嘉永5年に生まれる。維新後駿河に移住し、駿東郡東沢田村笹見窪に土着し、兵学校に入学。兵学校廃止と.ともに上京し教導団に編入。以後、陸軍士官学校教官などをつとめ、工兵大佐となり、大正元年没。弟には、沼津兵学校附属小学校で学んだ寅次郎・庄三郎がいる。

 

平岡 道生(8)

旧名錠三郎。明治21年ころから長期間にわたり海軍兵学校の教官をつとめた。中川将行・荒川重平らと同様、東京数学会社の熱心なメンバーであった。昭和18年ころまで健在だったという。

 

新家 孝正(9)

旧名彦太郎。兵学校廃校後上京、工部大学校に入学し建築科を卒業した。宮内省などに奉職し、大正3年には工学博士となった。後年は自ら建築の工業事務所を経営したという。

 

浅川 広湖(9)

旧名万次郎。明治7年にカナダ・メソジスト派の宣教師カクランから洗礼を受け、以後牧師として沼津教会や静岡教会で布教に従事。さらに甲府教会の牧師にもなり、宣教師イビーとともに山梨県下を布教。大正5年没。

 

永嶺 謙光(?)

旧名重八。明治5年海軍兵学寮に入学。日清戦争では軍艦高尾の機関長として活躍。後年海軍機関学校長をつとめ、海軍少将になった。兄永嶺源吉も沼津兵学校資業生出身で、陸軍砲兵大佐となった人。

 

長島 弘裕(?)

幕臣長島弘道の子として嘉永2年江戸で生まれた。明治212月に兵学校に入学。寄宿舎に入り、病気のため翌年8月退学したという。静岡県官吏として種々の役職をつとめ、第2代の静岡市長になった。

 

土屋 氏貴(員外生)

幕臣北条三蔵の子として天保7年江戸に生まれる。明治2年沼津兵学校の員外生となり、翌年には沼津郡政役所に勤務した。廃藩後も第一大区副区長・第二大区区長・浜松警察署長・沼津警察署長・監獄本署長などとして静岡県に奉職した。

 

斎藤 修一郎(員外生)

福井藩士。員外生として入学。上京後は開成学校に学ぶ。官僚となり、井上馨の四天王のひとりと称されたほか、帝国党総務委員・第2次伊藤内閣の農商務次官などをつとめた。実業界に転じて中外商業新聞社長などにもなった。

 

大森 俊次(員外生)

甲斐国中巨摩郡南湖村の出身で、安政5年に大森太郎右衛門の子として生まれた。沼津兵学校の生徒としては、清野勉とともに数少ない平民出身者である。兵学校廃止後上京、東京大学に入学し、首席で卒業したという。数学関係の著書が幾つかある。

 

清野 勉(員外生)

嘉永6年沼津の医家に生まれる。兵学校では第5期資業生に編入。その後上京して中村正直や西周に師事。哲学・論理学を専攻し、哲学館や真宗大学で講じた。論理学の大成者。カント研究の先駆者として知られる。明治37年没。

 

立川 雲平(員外生?)

安政4年淡路島に生まれる。阿波徳島の蜂須賀藩士。後年長野県に移住し、佐久地方の自由民権運動を指導し、衆議院議員もつとめた。昭和11年没。

 

太田 実(員外生?)

安政5年淡路島に生まれる。徳島藩士。上京後東京本所区長や衆議院議員となった。国民協会の領袖でもあった。立川同様、沼津兵学校入学の事実は疑問である。