田辺朔朗(沼津兵学校附属小学校卒)


博士少年時の敏育・沼津小學校に入る

 

博士は家運の傾ける甚しき間、即ち十一歳まで沼津の小學校に通うて居た。それは前将軍慶喜の静岡に移さるるを同時に奮幕臣は一様に濱松静岡沼津に配分して居住を許され。叔父太一氏は沼津の兵學校に教務を執り、從って田邊一族は氏に伴はれて再び東京を離れ、其の地に移住して居た關係からである。而して明治四年に至り太一氏は新政府に用ひられて、外務省に任官したので、博士の家もまた翌五年に東京に転じた。當時の子弟敢育の機關は、英漢数の學を箇々別々に授ける私塾のみであつた故に博士は東京移転後、湯島天神下なる共慣義塾に入ってその授業を受けることとなった。


土木の人田辺朔郎「土木の歴史絵本第4巻著者かこさとし」

 

明治2(1869)3月、首都が東京に移ると、みやことして栄えてきた京都は一夜で地方都市となり、人口は減り、産業はおとろえていきました。

第三代京都府知事北垣国道は、産業をおこし、京都をよみがえらすため、琵琶湖と京都を結ぶ水路をつくり、交通路にするとともに、京都には水道と、農業の水を送り、それに水車で産業・動力を得ようと考えました。

北垣知事から相談をうけ甲工部大学校(東京大学工部の前身)校長の大鳥圭介霊紹介したのは、当時まだ18才の土木工学科の学生、田朔郎でした。

田辺は、文久元年(11)江戸の幕臣の子として生まれ15歳で工部大学校に入学し、その卒業論文で調査・設計をまとめた「琵琶湖疏水工事の計画」を発表していたからです。北垣知事はその構想を聞き、この若者に京都の未来をたくそうと決意しました。

工事計画をはばむ多くの壁

計画は、大津から長等山の下をくぐり、山科盆地、京都蹴上を経て賀茂川に至る約11kmの大工事でした。その最の難関は、かたい岩石でできた2436mの長等山トンネルで、それは当時最長だった逢坂山トンネルの4倍もの長さです。「そこに水路トンネルを掘ることは、技術にも財政的にもむずかしい」と、政府から派遣されて調査したオランダ人技術者も反対したほどでした。

また政府内の争いで、工事費2倍となり、その分を市民の税金とすることや、京都盆地が水びたしになるうわさなど、京都、滋賀、大阪の市民からも建設反対の声が出るありさまでした。そして、こんな大トンネル工事を経験した技術者も作業者もいないうえレンガや石材、セメントなど資材が十分ではありませんでした。

こうした困難があっても、北垣知事の意志と田辺の熱意はゆるぎませんでした。北垣知事は、政府や市議会になんども足を運んで熱心に説明し、反対する人々を説得しました。

田辺も、生野銀山の坑夫などを集めてまわり、山科に年間1000万個をつくる日本一のレンガ工場をつくり、国有林の払い下げの木材を手に入れ、石材を自分たちで切り出すなど準備を整え、明治18年ようやく起工式を迎えるにいたりました。

こうしてようやく工事が始まったものの、近代的な土木工事になじみのない作業者たちは、若い田辺を青二才と笑ってなかなか従いませんでした。しかし田辺は、毎晩仕事が終わった後、材料や機械の使い方、新しいやり方を熱心に教えて理解を深めていきました。

 

仕事に対する情熱と勇気ある行動

トンネル工事では、わが国で初めて「竪坑」という方式を使いました。これは、東口から約三分の一の所に深いたて穴を掘り、そこから東西へ掘って工事を早めるのですが、作業は困難で危険をともないました。ふいに大量に水が吹き出し、排水ポンプが水中に没したり、粘土層の土砂がくずれ作業員が中に閉じこめられるなどの事故の時、救出の先頭に立ち、的確な指示を出す田辺に、作業員たちは、いつしか心服していきました。

こうして全員一丸となって工事を進めた結果、中心線の誤差が、南北7cm、上下1cmという正確なトンネルが貫通しました。

この疏水計画では、水車の力で製粉、精米などの工場をつくる予定でしたが、工事最中の明治21年、アメリカで世界最初の水力発電が伝えられると、田辺はただちに現地へ行き、水力発電が有効であることを見ぬきました。そして、その10倍以上の発電を得る水車の設計を、帰りの大陸横断の車中で作り、帰国すると、水車動力の計画を勇気を持って変え、発電所をつくることにしました。

こうして、第一疎水・鴨川運河とともに行われた発電工事により、明治24年から送電が開始されました。この電力で、京都蹴上からインクライン(傾斜式鉄道)で船を大津へ引き上げ、街に電灯がともり、工場のモー夕一が動き、明治31年、発電は2000馬力にも達していました。

東洋の小さな国が世界最新、最大の水力発電施設をつくったことに欧米の技術者たちは驚きと賞賛の声をあげイギリスの土木学会は、権威あるテルフォード賞を田辺に贈ってその業績をたたえました。

 

かずかずの功績と開拓の精神

田辺は、琵琶湖疏水完成後も全国各地のトンネ,ル、運河、橋梁、水力発電、鉄道、治水、都市計画、震災予防などの仕事にたずさわり、そのそれぞれがみな日本最初の土木工事として功績を残していきました。

こうした中で、特に大事なことが、二つあります。その一つは、疏水完成後28歳で母校である帝国大学工科大学教授となり、さらに京都帝国大学でも技術者教育に力を注ぎ、実力を持った若い技術者を育てたことです。

もう一つは、当時まだ未開の地だった北海道奥地の鉄道調査と鉄道工事を、明治29(1896)からおこなったことです。現在の北海道の鉄道の主な路線を、苦労を重ねて選定していきました。

他の人に先がけて物事をなしとげることを開拓といいますが、単に新しいだけではなく、琵琶湖疏水でも、技術教育、北海道の鉄道でも、しなければならない分野の仕事を、田辺は最もよい方法を求めて開拓していった人でした。

それらは、先を見通すすぐれた考え、ちみつな調査や計画・設計、すばやい決断と勇気、実行に移していく能力と努力の結果もたらされたのです。田辺は、明治44年から関門鉄道トンネルの調査と設計をしましたが、それが開通した昭和17年、病床でその知らせを聞いた後、82歳でその輝かしい生涯を終えました。