西周における思想形成と沼津()ー沼津赴任ー四方一瀰

 

はじめに

西周が沼津兵学校頭取の内意をうけて沼津に到着したのは明治元年十月二十四日であつた。そして新政府からの要請による上京のため、藩命をうけて沼津を発ったのは明治三年九月二十一日で、この間約一年十一か月である。西は文久十二年二月三日に生まれ、明治三十年一月三十一日、六九歳で亡くなっているから、彼の人生において沼津在住の期間はきわめて短いものであったといえよう。

しかし三百年の間政権を掌握していた幕府が崩壊し、薩長を中心とした新政府が樹立されたことは、たんに政権の移動という問題以上に政治的にも社会的にも、また思想・文化のうえからきわめて大きな変革であり、ある意味で新しい日本再出発の画期的な時期であった。旧幕府に仕えていた西がその倒壊によって沼津に移住したことは、社会的意味のみならず西個人の問題としても大きな変革を迫られ、かつ思索の変化や深化を余儀なくされた時期であつたことは容易に推測できるところである。その「明治」の原頭を沼津で過ごしたということは、西周における「沼津」のもつ意味はきわめて大きいと云わざるを得ない。では、思想家であり哲学者である西周は沼津において何をし、何を考えたのであろうか。蓮沼啓介はこの点について「明治二、三年の間に西周が何を考え、何を行っていたのかは余り明らかでない」といい、また、「明治二年正月から九月までの間、西が沼津兵学校の頭取として何を考え何を行っていたのかはほとんど具体的にはわからない」といいこの点についての「詳しい解明は今後の研究に待つ外ない」としたのも西研究の一つの現状であるといわなければならない。

ところで、文久二年六月、当時幕府の蕃書調所の教授手伝並であった西は、津田真一郎らとともにオランダに留学し、自然法・国際公法・国法学・経済学・統計学をフッセリング教授のもとで学び、帰国後は徳川慶喜のために「恐らく最初の日本憲法草案」といわれる徳川家中心の公議政体論を献策した「議題草案」を起草している。また、沼津下向に先立って明治元年四月に『万国公法』を刊行するなど西欧に学んだ新しい学問をもって、苦境に立つ徳川家の動乱期を支える理論的支柱となった。

一方、西周は、早くより西欧の哲学に関心を抱き、文久二年(一八六二)には「目本に於ける西洋哲学研究の第一声」ともいうべき蕃書調所での講義案を作成するなど、幕末期において西洋哲学の研究に強い関心をよせていた。それはオランダ留学中か、その直後に執筆されたと目される「開題門」や慶応二、三年の京都在住時代の執筆らしいと云われている『百一新論』などの著述となった。

しかして沼津在住中には麻生義輝が指摘するように明治三年に上京して「真の学問的活動を始める迄の二年間には別にこの方面〔哲学研究〕では業績を残してゐない」のである。それが沼津から上京して間もない明治三年十月頃より西の私塾育英舎で彼の代表的な講義録『百学連環』が講義されている。その後六年一月には「生性發蘊」、翌七年からは『明六雑誌』への寄稿、同年三月には『百一新論』の刊行、同七月には『政知啓蒙』の刊行など、相継いで哲学・思想関係の刊行を行うなど明治三年末からおおよそ六年頃までの「この数年間が学問的には西周の最も活動的な時代」であったといわれる。このことは沼津在住当時にはこれらの「業績を残してゐない」としても、多忙の中で思索を練り、発酵させていたものが沼津を去ってのち、文筆に手を染める時間的・精神的ゆとりを得て顕在化されていったものと思われる。

その意味でも沼津在住当時、西が何をし、何を考えたかを考究することは西研究のみならず、わが国の近代的学問・思想の成立・形成を考えるうえに重要である。

このような視点に立って西の沼津在住当時の思想形成や行動について考察を進めていきたい。しかし乏しい史料に加えて限られた執筆期間と紙数からこのすべてについての論述は不可能で、とりあえず思想形成の過程を考察する基盤としての沼津在住当時の西の行動や外的条件を押さえることを本稿の目的とする。

沼津赴任への経緯

主家徳川家が七〇万石の一大名として駿・遠・三の地に封ぜられたことによって旧幕臣たちは新政府出仕・帰農()・無禄移住のいずれかの選択にせまられた。西は、もとより朝臣となることは本意でなく、かといって徳川家譜代の家臣でもないので、新封地の駿河に随従することもできない。当時の自らの処遇に苦しんだ状況を妻舛子の長兄相沢湛庵に、つぎのように吐露している。

…当時当表殊之外混雑中二而、開成所は天朝之物と相成大坂江引ヶ侯様子、其外師家と申候而も或は駿府引移、或は削籍二而町人百姓之渡世杯二変候折柄、熟生杯置候人も無之、既二小生も商人渡世仕度二付御暇相願申候仕合二御座候、乍併今日迄未タ御暇は出不申候得共何れ近日中相定候事と奉存候、・…・

幕府倒壊、徳川家駿河移住という時期の混乱した世相が活写されているが、西が勤仕した蕃書調所の後身で幕府の洋学研究の拠点であつた開成所も新政府の召し上げとなって大坂に移転し、塾の教師もあるいは駿河に移りあるいは百姓町人となり、塾の学生を受け入れるところもない。西自身も商人となって生活の道を得るべく徳川家家臣の抜籍を願い出ているが今日に至るまで許可が出ていないというのである。ここで注目されるのはかつて洋学の第一人者と目された西が一旦は商人となる決意をしたことである。かつて慶応三年の末にも、慶喜に従って京都に上ったが、なすこともなく無聊をなぐさめるためただ痛飲に日を過ごしたこともあったが、いままた学問を放棄しなければならない事態に追い込まれざるをえなくなった。何のために今まで脱藩までして学問に志し、はるばるオランダの異国の地まで留学したのか、自ら新しい学問体系を樹立しようと専念して来たことが何であったのか、西の胸中はまさしく悲嘆のドン底であったであろうことが推測される。

郷里津和野は遠くかつ脱藩の罪は解かれていない、たまたま佐倉に住む義兄瀬脇寿人のもとで田舎に閉居することとし、徳川家の残務処理担当者に「御暇」を願い出た。これを見た浅野次郎八は西に朝臣となっても重用されることはあるまい、徳川主家にしたがって駿河に下ることを勧め、約束はできないが、何とかなるであろう、慶喜は決して西を粗略に扱うことはないであろうと駿河下向をうながした。西はこれに対して、すでに寿人に佐倉居住のことを伝えてあり、しかも在京当時の動乱で資産も使い果たしてしまっている旨をもつて浅野の申し出を辞退した。浅野はさらに同じ考えのものも少なくない、しばらく田舎にとどまるだけのことであるとして勧めたため西もこれに従うこととし、寿人につたえたところ数日後、家を挙げて至急来るようにとの通知を得た。

このように去就に迷っているとき、西は友人大築尚志と面談することがあった。その時大築から徳川家新封の地沼津で、阿部邦之助が陸軍の学校開設の計画をもっているがその「主務教頭」たるべき人材に困っている。西にその気があるならば阿部に推薦しようとの申し出があった。西はさっそくにこれに応じ、数日後にして阿部からも承諾の通知があった。ここにおいて雉子橋にあった徳川家の沼津移住掛の役所に出向き陸軍御用取扱の辞令を受け、西周の沼津行きが決定した。

悲嘆の底にあった西にとって、学問の場であり教育の場でもある兵学校の学校経営に携わることは願ってもない活動の場であるとともに今までの自分の学問を実践しあるいはより一層深化、充実させることのできる機会ととらえたものと思われる。絶望的な幕末維新期の西の境涯においてこの新しい沼津での仕事への要請はまさしく晴天の霹靂であり、今までの「鬱々楽マ」なかった日々の鬱積を払拭する朗報であり西の、「沼津」にかける期待は大きかったと思われる。

二沼津への移住と生活

かくして明治元年十月十九日の早暁、川上冬崖や妻舛子と浅草を出発、途中、川崎・程ケ谷・大磯・箱根畑宿・三島に宿をとり、二十四日沼津に到着した。その日は本町の近江屋久兵衛の家に投宿し、翌二十五日には通横町の旅宿小松屋に移り、さらにその翌日二十六日には公命により西夫婦は三枚橋の名主鈴木與兵衛の隠居所に移ってそこをしばらくの居所とすることとなった。その後を追って二十九日には大築夫婦も女児を背負って来沼、同じく鈴木の隠居所に同居することとなった。そののち十一月八日にいたって西・大築夫妻は鈴木の隠居所を出て旧城内外堀に南面した西北隅に近い十九番屋敷に移ったが、ここでも両家は同居の生活であった。西が独立して家庭をもったのは大築夫妻がすぐ近くの外堀に東面した城の西北隅の角にある十七番屋敷に移った同月二十八日のことであった。西も大築もここにおいて幕府倒壊にともなう動乱の生活に、ようやくひとまず終止符をうつこととなった。

旧幕府陸軍関係で沼津に移住した士族の総人員はつまびらかにしないが、明治四年十月の調査によればその数二一三五人といわれる。もとより菊間へ移った水野藩の武士屋敷に収容できうるものではなく、お城周辺の長屋や椎路・沢田・小林・岡一色・静浦・下長窪など沼津周辺の村々の農家や寺院などへ割り当てられた。西や大築が入居した住宅は小呂家といわれる水野藩藩士が入居していた城内の兵学校に近い一戸建ての建物で、「御存之通陋屋二而困却仕候」とはいえ、屋敷の空き地には桜の木が植えられていたり、しばらくの間にせよ大築夫婦と同居し、また福井藩留学生を招いて談話を楽しみ、あるいは塾を開くなどそれなりの生活をしていたことがうかがわれる。

沼津移住にあたって家財はすべて送り状を提出して船で運ぶものとされたが西の家財は長持一棹・箪笥二つ・水風呂一つ・水瓶一つ・畳建具三〇枚でほとんど着のみ着のままの状態であった。もとより移住のため引越荷物は最小限にとどめたこともあろうが、すでに在京当時、幕末の動乱で資産はまったく失い、貯えもなく、それゆえ兵学校頭取に任用されても御役金六百両ではまさに「焼石二水」で「渇々相暮申候」が精一杯で、日々家財道具を買いもとめてはいるが容易に生活に必要な道具諸品などを取り揃えるには至らない、と下向後の状況を妻舛子の長兄相沢求に報告している。だが、このような経済的状況のなかで、着任早々「即日より其調ニ取掛」るなど意欲的に兵学校開設に向けての作業に取り組んでいる。この点については後述するが、その一方で京都で塾の閉鎖を余儀なくされていた学生たちへの新しい学問の教授の再開を図り、自宅の十九番屋敷で教授活動を始めている。嘱望されて開設される兵学校頭取の本務はもとより西の本望とするところであるが、直接好学の学生に彼が樹立しようとする学問体系を教授することは無上のよろこびであつたに違いない。動乱の明け暮れのなかで一刻も早い学問教授再開の悲願が沼津においてようやく実現されたという意味においても、西にとって沼津への移住は忘れがたいものとなったと思われる。

「西家譜略」によれば、十九番屋敷に安定した住居が定まって間もない明治元年十二月朔日、林洞海の依頼によってその六男紳六郎が西の許に「入塾」している。これは兵学校開設のための兵学校規則が十二月に制定される目途がたつのを待っての「入塾」であったであろう。その後福井藩から留学生が来沼しているが、これについて「西周伝」は福井藩士永見裕が同郷の少年を率いて来沼し、これを予備小学校〔沼津兵学校附属小学校〕に入学させ、また「暇時周に請ひて業を授けし」めたと記しているが、本来沼津兵学校への入学資格は「其父より徳川家御家臣の列に相違無之候事」であって他藩からの入学は許されなかった。京都在住当時の塾生でもあり、深く西に私淑していた永見の懇望により藩主家達に願い出て入学を許されたという経緯がある。また石橋絢彦は永見は同藩の子弟を連れて来沼し、「西頭取の私塾に於て授業せられん事を請ふ」と述べている。この塾が依頼により「暇時」に私的に教授したものか私塾として公に開設したものであるかは明らかではないが、「掟書」の制定公布が出来たとはいえ、西の公的立場から塾主に専念することは困難で、前者の私的に内々に教授した程度のものであったか思われる。

西の沼津兵学校での仕事や私塾での教育活動、あるいは西の思想形成の状況については既に所定の紙数に達してしまったため、本稿では触れず、次節にゆずるが、西にとって研究や研究活動など公的なしごととは別に西周にとつて沼津がかれの人生におけるきわめて大きな節目となった二つの問題について簡単に触れておく。

一つは林洞海の六男紳六郎を養子として入れたこと、もう一つは西周の改名の問題である。まず前者についていえば、林洞海の六男で十歳の紳六郎が明治元年十二月朔日西の門に入塾したことはすでに述べたところであるが、これが契機で紳六郎は西家の養子となった。明治二年正月二十五日付相沢求宛書簡にて当時四十一歳の西は「生も次第老衰二も及候所、今以誕生之目留も無之候故」養子を取ることを考えていたところ紳六郎が自分の塾に寄宿するようになり、「家内二も至極馴候而且敏捷之資質と見受」たので洞海に相談した。洞海も早速承知してくれ、「当年漸十歳二而先行末之楽」と記している。西の私塾に入った紳六郎が資質の敏捷さはもとより母となるべき西の夫人舛子との間が旨く行きそうなことが西を安心させたのであろう。舛子も十二月朔日、洞海が紳六郎を連れてきたことを記した翌二日の日記に「紳六郎よくなれたり、一夜にて今日ハ遠慮なき様子に安心す」と記しており、双方ともに好感を持ち得た様子が窺える。翌年の二月十四日には毅林・赤松・大築.矢田堀を招き紳六郎の入家式をおこなったが、紳六郎には沼津の呉服商油屋に誂えた黒紋付一重ね上下を着せ、西の好みによるあれこれの手製の料理で午後二時半から始めて夜の十時前にお開きになった。西の喜びようが窺える。

もう一つの西周の改名については蓮沼啓介による西の友人や身内に宛てた書簡に記された署名の詳細な分析がある。

それによれば「周助」の呼称は明治二年二月十六日付の西紳六郎養子縁組許可書が最後で、同年十一月晦日付の松岡隣宛の書簡にはじめて「西周」の署名がみられるという。そして二年一月以前に「周」の署名を用いた例はなく、十一月以降に「周助」を用いた例は見られないと言う。西の周助から周への改名は紳六郎を養子に迎え入れた明治二年二月十六日から同じ年の十一月晦日までの間とみられるが「西周」として著名な彼の名は沼津在住中に成立したものと考えられる。その動機は明確にしないが、石橋絢彦は明治二年七月新政府より助・輔・丞・正・右衛門・兵衛などの名は百官名や国名に差し障るので改名するようにとの達しがあり、西・塚本ら該当者は改名したと述べている。なお年次不明の「八月十五日」付西書簡が『西周全集』第三巻(六七四〜五頁)に収載されているが、それによれば西は来沼当初の止宿先の鈴木与兵衛(貢一郎)の伜健吉郎とその縁者井口省吾を東京の中村正直に、その経営する同人社への入塾を依頼、推薦している。

以上、紙数の都合により本稿の一部、沼津移住の経緯から沼津に居を構えた時期の生活環境について記し、その思想形成について論究することはできなかつた。これは次号において述べることとするが、塾の開設による学問教授、沼津兵学校という教育機関において彼のそれまでの学問研究の具体化・実践化の機会をうることができたことは、留学帰国後の彼の学問研究とはおよそ無縁な不遇の時期から脱却して、哲学者としてまた教育者として西周を再生させ再出発させる彼の人生の一大転機となったのが沼津でありその意味において西周における『沼津』の意味は極めて大きい。

また私的にも養子を迎え、後顧の憂いなく研究や職務に専念でき、学者・教育者西周の名を確立したのも「沼津」であり、西にとって沼津の意味は決して小さいものではなかったといえよう。「沼津史談」第五十四号(平成十四年二月発行)