平成17年3月26日「四方氏・樋口氏の講演と対談」記事

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代戯館まつりで業績たたえる・講演と対談で人物像描く

 

四方会長は講演で、沼津兵学校の頭取を務めた西周がどういう人物か尋ねられることが多い、として講演のテーマを「西周」にしたことを説明。西の出生地で、生家が残っている島根県津和野町でも、西と親戚関係だった森鴎外は知られているが、西は知らない人が多いという。同地では西の顕彰もあまり行われていないことから、「沼津が(主に)西周を顕彰することになれば、沼津にとって大きな拾い物をしたことになる」と話した。

日本の近代化にとって西はいなくてはならない人物だったが、その業績の一つに、思想という目に見えないところで、大きな役割を担った。四方会長は、「時代はある一点で、一度に変わることはない。西周が出たから急に近代化されたと思うのは間違いだ」として話を進行。「明治時代の日本人はものの考え方が非常に東洋的だった。心理学という言葉を使い始めたのが西周だが、西の本に『致知啓蒙』(ちぢけいもう)がある」として、話の筋道をつけていくことを教えるためだったというこの本の内容を説明。本の最後に『駿河西周』と書いているが、西が駿河にいた時というのは沼津しかなく、しかも、同書は、日本で最初に書かれた形式論理学の書籍となった。四方会長は続けて、「日本では話の筋道をつけるという学問はなかった。西洋人は分析的に物事を見るが、日本人は筋道を立ててものを捉えていくという考え方がなかった」とした。また、同じく西の著作『万国公法』について、ペリー来航後、国際社会に入らざるを得なかった日本が、一方で生麦事件など援夷の動きもあり、幕府としては、危険人物は自宅から出ないよう命令を出したりし、このような命令がまかり通るのも日本が国際社会から外れたルールに従っていたことの表れだった。

西は、「日本も国際社会のルールを知らなければならない」として『万国公報」を翻訳。さらに別の著作『百一新論』について、「世の中にはいろいろな学問があるが、奥底ではつながつている。諸汝の学問は行き着くところは一つ(に集約される目的を持ったもの)なんだ、という彼の思想の神髄を著している」と説明。「(西が書いた)本はどれをとっても日本の新しい学問を代表する著作で、日本が変わる原動力になった。日本の近代化を代表する人、という意味が分かってもらえたと思う」と話した。その上で、「西周は(沼津)兵学校の校長先生だから偉いという人もいるが、確かに校長だから偉いのかも知れないが、新しい分野を切り開いたから偉い、偉いから校長になったんだと、このように捉えていただければと思う」と話した。

そして、『百一新論』に話を戻し、「いろいろな物事を突き詰めていけば一つのものに帰着するんだ、ということを言っているが、学校、家庭、宗教には、それぞれ教えがある。罰して正しい道を教えるという意味では法律も教えで、教えと政治は、人を教えるのと人を治めると違うように見えるが、世の中を平和するという目的では一致している」などと解説。このように多用な物事の共通するところを見つけることが重要だと同書では教えているという。四方会長は、「西は気性の激しいところがある」として、著書の中にも荒っぽい表現が見られることを指摘。例えば「僧侶が座禅をすれば世の中が良くなるのか。お祈りをすれば世の中が平和になるのか」といった意味のことが書かれているという。

その上で西は、天災は自然現象、祈りは人の心の働き、というように分析的に考える方法を記した。現代のように分析する西洋的なものの見方を伝えた。四方会長は、「それでは物事を分析し、分ければそれでいいかというと、そうではない」とし、「分析後、分析によって区別されたもの同士の共通部分を見つけることが必要だ」と話を戻した。違いがあるように見えても多様な物事の根は一つであるということを知ることが『百一新論』の内容。このほかにも西の業績として、「心理学」と「哲学」という言葉を初めて使ったことを挙げた。

この後、四方会長と樋口助教授の対談が行われ、樋口助教授は、西が沼津にいた期間を、明治元年十月二十四日から、明治政府にスカウトされて沼津を出る三年九月二十日までとし、その間に残された資料は西夫人の日記や西のメモ書き程度と少ないことを説明した。西は沼津に来て最初の頃は三枚橋町に住み、それから静岡藩(徳川家)から与えられた、現在の中央ガード南端の場所に移り住んだ。約二年間の沼津時代の半年間程、津和野町に戻っていた期間があり、沼津にいたのは実質一年半程。この短期間に『致知啓蒙』を著すなど活躍したことから西の業績をたたえた。(沼朝4月2日号)