西 周 (沼津兵学校頭取)




西 周(頭取)

文政12年2月3日石見国津和野藩医の子に生まれる。旧名周助。藩校養老館で儒学を学んだ後、嘉永6年に江戸に出て蘭学を学ぶ。翌7年脱藩して蘭学修業に専念し、手塚律蔵の門に入る。安政4年手塚の推薦で蕃書調所教授手伝並に任命され、文久2年には幕府オランダ留学生のひとりとして渡欧した。オランダでは、津田真道とともにライデン大学のフィセリング教授から法理学・国際公法学・国法学・経済学・統計学を学んだ。慶応元年帰国し、翌2年には幕臣にとり立てられ、開成所教授となった。徳川慶喜の諮問に応え、大政奉還後の政権構想として「議題草案」を起草した。明治元年沼津兵学校の頭取となりその経営に力を注いだが、明治3年には明治政府の徴命により上京、兵部省に出仕し、学制取調御用掛を兼任した。以後政府の官僚・学者として、兵部大丞・侍講・宮内省御用掛・参謀本部御用掛・文部省御用掛・東京高等師範学校長・元老院議員・東京学士会院会長・貴族院議員などを歴任し、男爵に列せられた。学制・軍制の基礎づくりに大きく貢献し、「軍人訓誠」を起草したり、「軍人勅諭」の起草にも関与した。また、私塾育英舎を開いたり、津田真道・福沢諭吉・森有礼らと明六社を結成して、文明開化の思想を鼓吹した。特に西洋の哲学思想を我が国に導入した功績は大きく、封建的な学問・思想を否定して日本の近代化を理論づける役割を果した。明治30年1月31日没。(沼津市明治史料館資料より)

(明治元年十月二十四日沼津着、十一月十五日片端十九番屋敷に移住す)


西周における思想形成と沼津 「四方一瀰」
平成17年3月26日対談録

西周の学問と沼津・四方一瀰・平成20年11月27日(木)沼津朝日新聞投稿記事

「西周と津和野」松島弘
(西周研究家・津和野町教育委員会文化委員)

はじめに

日本近代哲学の祖である西周(一ハニ九〜一八九七)は、哲学にとどまらず、政治学者として幕末から明治の激動期に将軍・徳川慶喜のブレーンとして、現行の憲法制度の先駆けともいえる象徴天皇の政治形態を示した。また明治新政府に乞われ、欧米列強の外圧に対して、国防や教育制度の改革に尽力した。さらに、近代市民の自主・独立の倫理を啓発した。学者の最高の組織団体である東京学士会院会長にも七度選任された。明治を代表する開明的な知識人であった。このように西周が果たした日本近代化への業績ははかりしれない。

西周(以下周)が津和野に在ったのは、彼が洋学を志し、脱藩するまでの二十六年間である。しかし、その後、周は二度、津和野に帰省している。

明治二年(一八六九)津和野藩知事(旧藩主)亀井戴監の命により帰藩、百日余り滞在した四十一歳のときと、二度目は父時義(寿雄)の危篤により帰省した五十三歳の時である。この帰省のおりには、藩主へ藩校の改革や、自己の哲学を述べた書を上書すると共に、郷土の人々への啓発活動も展開した。二度にわたる帰省時に依頼を受け揮毫した書が当地には多く残されている。

生誕

文政十二年(一八二九)石見国津和野森村堀内(島根県鹿足郡津和野町大字森村堀内)に藩の侍医、西時義(のち寿雄、森家の次男西家の養子、鴫外の叔父)、カネの長男として生まれた。幼名、小字は経太郎のちに寿専、名は時しげ、中ごろ魚人のち、魯人、元服して修亮、周助。維新後、周と改めた。号は天根、甘寝斎など。

四歳の時、町内の杉片河に移転した(旧居は、国指定史跡)。この年、祖父時雍より孝経を学び、六歳の時には、四書も学んだ。

養老館時代

十二歳、藩校「養老館」へ入学した。当初官学の朱子学を中心とする藩校として出発したが、やがて国学を藩校の中心教学とした。国学科教授には、国学の精神に基づく学則を制定した岡熊臣、尊攘運動の指導者となった大国隆正、神道国教化政策の中心となった福羽美静、蘭医科には吉木蘭斎、適塾に学んだ室良悦、進藤良策、数学科には桑本才次郎があり、他に武道科が設置されていた。

出身者に周の他、山辺丈夫(日本紡績の父)、小藤文次郎(日本地質学の父)、文豪森鴫外がいる。周の入学当時は朱子学が中心で、初代学頭の山口剛斎らに五経の他、近思録.靖獻遺言.文選.左国史漢を学んだ。その他、私塾での勉強を含む、漢詩、書道、…能、狂言など学問・芸術に旺盛な好奇心を示した。周は、家にあっては、米つきのときも書o物を見ながら米をつき、使いに出る時も書物を片手にし、履物が不揃いであることも意に介さなかった。土蔵の三帖間の勉強部屋から母屋に帰る食事の時間をおしみ、握り飯を土蔵に持ち込み勉学に専心した。その結果十七歳で藩主亀井藪監にまみえ、中雇従格となった。周、十七歳のとき、朱子学以外は異端の脚書とされた荻生徂徠の「論語徴」・「徂徠集」を読み、「実学」へ眼を開かされた。徂徠の説く道は、朱子のいう五倫五常の道,人間の倫理規範の定めたものをいうのではなく、「先王の道」すなわち古代の王たちが治めた政治制度のことであるとし、朱子学の空理空論は実用の学とはなり難いと悟った。「家業の瘍医(外科医)は賎技であって、小の小なるもの、有志の士のめざすものではない」と思っていたが、徂徠により、最も実用的な学問として、外科医になることこそ自分の進むべき道であると考えるに至った。

周二十歳の時、藩主より、周一代に限り家業である医者を継がず(いわゆる一代還俗)、儒学に専念するようにという命が下った。医学を志しながらも、医学を諦め藩命に従うこととなった。二十一歳で大坂に遊学し、後藤機(頼山陽の養子)の「松陰塾」に学び、生涯の友、松岡隣(養徳、りん次郎)と親交を結ぶ。書を求めて岡山学校に転じ、二十三歳、期限が過ぎ帰藩後、藩主に「孟子」の御前講義を行う一方、養老館の塾頭兼教官署番となった。

嘉永六年(一八五三)、二十五歳で江戸藩邸の学問所「時習堂」講釈を命ぜられ準備中のところ、ペリーが浦賀に来航、沿岸防備のため急拠江戸に上った。黒船を眼前にして、ペリーの大砲に立ち向かうことの無謀と、また大砲を輸入すれば解決する問題でもなく、大砲を操っている人間を育てている国の文物制度、即ち「社会制度」や学問、教育の内容を知ることが急務と考え、脱藩を決意した。

藩では、周の志に免じ、罪は親族に及ばず、「無期限の暇を与える」ことで脱藩が許された。オランダ留学

脱藩により、本格的な洋学の学習をはじめ、オランダ語を大野藩某氏に、文法は津和野の池田多仲に、英語は杉田成卿・手塚律蔵(のち瀬脇寿人、外務大禄)に、発音は、中浜万次郎に学んだ。その他西洋砲術も学んだ。安政四年(一八五七)幕府の洋学学問所、翻訳所である「蕃書調所」の英語の教授手伝並となった。

一橋慶喜(のち将軍)に「蝦夷地開拓建議」(原題・丁巳十月草稿)を上書、「諸外先進国が日本を軽蔑しているのは、大砲の利や軍艦が大きいからではなく、実は制度の便利さと、人材に富むことを自負している」として、蝦夷地(北海道)をねらっているロシア・アメリカ・イギリスに対し、日本は上下の弊にとらわれることなく、身分制度の解放と社会制度の改革が、軍事力の増強にも増して必要であると解いたが、この返書は得られなかった。

文久元年(一八六一)「承美私言」を著し、人材育成のため「人材欧米に派遣することの利」を進言し、津田真道と共に留学運動に奔走した。やがてアメリカ留学決定の内命があったが、南北戦争勃発のため、オランダヘ変更された。造船技術を学ぶため留学する海軍操練所の士官・榎本武揚(釜次郎)内田正章(恒次郎)沢貞説(太郎左衛門)赤松則良(大三郎)田口良直(俊平)と同行、文久二年(一八六二)品川より、周と真道は威臨丸で旅立った。

周が留学して学ばんとした学問の内容はライデン大学日本語・中国語科教授ホフマンヘの手紙によると「統計学・経済学・政治学・外交術・フランス語・それに愛知学(哲学)を学びたい」と書いている。その目的達成のため、同教授を介し、ライデン大学教授・経済学者のシモン・フイッセリング(法学博士・文学博士・のちに大蔵大臣)について「自然法学・国際公法・国法学・経済学・統計学」の五教科を学び、さらに同教授からコントの実証主義、JSミルの功利主義の影響を受けた。またオランダ哲学界の巨峰・オプゾーメル教授の著書の大部分を購読読破し、カントの思想を理解した。講義をおえた周らは、フイッセリングから「熱心で親切な生徒であるばかりでなく、むしろ友人と思っているので名残おしく思う」。「祖国では有益な人となり、貴君の社会で栄えあるものとなられるように」とのはなむけの言葉を受けた。それは彼等が日本近代化のリーダーとなることによって実を結んだ。慶応元年(一八六五)十二月二十五日帰国した。

幕末から明治へ

帰国後、開成所(旧蕃書調所)教授手伝に復職、間もなく幕府直参、教授となり、命によりフイッセリングの「万国公法」(国際法)を翻訳出版した。序文に「方今天下一家、四海一国」とカントの世界連邦の思想がみられる。徳川慶喜が将軍となると、周・真道らは将軍に召しだされ京都に随行した。

一方、全国の青年志士約五百名に乞われ、京都四条「更雀寺」に私塾を開き、西洋法学や哲学の講義を行った。この塾において、「哲学」という語がはじめて用いられた。その他、理性・感覚・本能・先天的・後天的など今日用いられている哲学用語のほとんどは、周の訳出による。この講義をもとに「百一新論」(明治七年)が出版された。儒学にみられる「法」と、「道徳」、「自然法則」と「社会規範」の混同を批判、百教()の区別を明確にし、哲学によって統一するというものであった。一方、将軍には、フランス語の教授を行った。

慶応三年秋十月、大政奉還が決定される席上、「英国議院制度」、「三権分立制」について諮問を受け、翌日「西洋官制略考」を提出した。また、「議題草案」と別紙「議題草考」を起草し、将軍に大政奉還後の政治体制を示した。この内容は三権、すなわち「禁裏(天皇)の権」、「政府(幕府)の権」、「大名の権」の分立を説き、立法権は上院(一万石以上の大名、議長は大君=将軍)と、下院(各藩の藩士の代表一名、解散権は大君にある)とから成り、行政権(長は大君)は幕府にあり、朝廷より最終決定権、すなわち裁可を幕府に与える。但し朝廷に拒否権はないという、幕府の改革意見書であり、現在の象徴天皇制に等しい、わが国最初の憲法私案でもあった。

慶応三年十二月、王政復古の大号令が発せられると、慶喜は大阪へ退去し周もこれに従った。明治元年、周四十歳元旦、幕府目付となるが「鳥羽伏見の戦い」に敗れ、慶喜は江戸へ退去。周も負傷兵取締として江戸に着いた。

慶喜の「江戸市民は皆朝廷に恭順すべき」という市民あての告諭文の原稿は、周によって書かれた。静岡藩主となった慶喜の陸軍将校養成校徳川兵学校(後の沼津兵学校)の頭取となって周も沼津におもむいた。兵学校は、歩騎砲工・衛生経理(軍医・計理)の各科と予備小学校(近代的小学校のはじめ)と、付属の病院を備えた日本で最も近代的な兵学校であった。

帰藩

明治二年、津和野藩主・亀井茲監から帰藩の命を受けた周は、徳川家に対し郷里の親の世話をするため退職したいという願いは許されず、かわりに休暇百日が与えられ、十一年ぶりに帰郷した。帰藩中、藩主の学制についての諮問に対して、「文武学校基本並規則書」を著し上申した。小学校の上に国学(文学)、武学の二学部をおき、政律科(政・法・経・商)、史道科(史・文)、医科(医・薬)、利用科(数理・博物)、歩騎砲工の兵科の設置を構想するものであった。また、「復某氏書」を著した。国学・儒学・洋学・諸学の一派に偏るだけでなく、広く学ぶことと、信教は自由であるとした。さらにその書には「故に五官より其信を初めなば必ず古へに泥まず、今に拘らずまた己れが便よきと便よからざるとを固執せず。

ただ事物の自らのまにまに備わりたる理りを信じて疑うことなし」とのべ感覚的・経験論的・実証主義的見方にとどまらず、根本に合理主義的な道理「一貫の理」があるのではないかとする。しかしそれは無神論的なものではなく「造物主の霊妙不測を感知す」として、合理主義では解決できないものもあると、批判的合理主義をのべている。哲学的にも格調高い書である。ついで「学校は人材教育之地治国安民の本にして、四海古今とも同一轍の急務」であるとして、文武教育の重要性を答申した。この意見は、津和野藩貢進生制度(藩の奨学生制度)として実現した。前述の小藤文治郎、山辺丈夫のほか、八杉利雄(森鴫外の上司・軍医)、大岡哲(裁判官)らが貢進生となった。明治新政府出仕時代明治三年(一八七〇)九月、新政府の命を受け、兵部省、少丞准席(翻訳局勤務)として出仕、大学の学制取締御用掛を兼務した。やがて陸軍大丞(陸軍卿はおかれず、大輔、少輔に次ぐ)となる。一方、自宅内に塾「育英舎」を開き、新進学徒の教育にあたった。舎生の中には、山辺丈夫、亀井薙明(美学者、亀井家十三代当主、初の戦場カメラマン)らがあった。

この塾において、「百学連環」と題した特別講義を行い、一大学間体系の樹立をめざした。学(科学)と術(技術)の意義と諸学科の系統を述べ、なかでも国際法の父グロチウスの「戦争と平和の法」、パウムガルテンの「美学」の紹介は、日本でも早い時期のものであった。天皇の侍読も命ぜられ、英国史・博物新論・心理学・審美学などの御前講義を行った。

明治六年(一八七三)、近代思想の啓蒙団体である「明六社」を、福沢諭吉・津田真道らと結成した。機関誌「明六雑誌」の創刊号の巻頭論文に、周は「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ書」を載せ、ローマ字採用論を展開した。ついで発表された「情実論」では、情実により政治を行う藩閥政治を批判、「秘密説」では、秘密外交を行う明治政府に対し厳しい警告を行った。反面、民選議院設立運動については批判的で、「網羅議院の説」において斬新的改革が日本の実情に合うとし、さらに「政治論」においても、政治を実践する上には、その国のおかれている「境遇ト言ウ者ヲ察知スルコト」が第一であって、いま「天下ノ総人民ノ開化ノ度ハ如何ト察知スレバ、民選議院設立ハ時期尚早」であるとした。周の倫理学の代表作「人生三宝説」が発表されたのも明六雑誌であった。カント、へーゲル、コント、ミルに至る道徳論の展開を紹介しながら、人生の究極の目的は「最大福祉」にあるとし、それを達成する方法として、「健康(マメ)」・「知恵(チエ)」・「富有(トミ)」という三宝をあげた。三宝の求めることは、個々人の最大目的であると同時に道徳の根元であり、三宝は人と交わる上でも、人を治める上で尊重されるべきであると説き、近代市民社会の新しい倫理観の樹立をめざした。

欧米列強の日本植民地化の波を防ぐために、日本人の精神の近代化をはかることが急務であると考え、その啓蒙活動を明六社で行った。それと同時に、大切なことは日本の国の

独立を守ることで、国の独立なくして、個人の自由も、平等も、幸福もあり得ない時勢でもあった。それには国を富まし兵を強くすることであった。周は哲学者として、「永久平和、世界連邦は国際社会の達すべき結果」であるが、現実的には未だ哲学者の夢想であって、現実にある歴史の展開は「思想がすぐれているとか、道徳学によって出来たという証拠は一つもない、ただ腕力(武力)というものがあるのみ」とし、「一国の国是は、国内事情によって決るのではなく、世界情勢の都合によって、自国の政策も左右される」(兵賦論)と説く。西南戦争の恩賞の不満から近衛兵が暴動を起こした「竹橋事件」で、軍人のモラルの確立が急がれた。周の勅諭稿(軍人勅諭の草稿)はこのような現状のもとに書かれ、「天皇の継承は国会の承認を受ける」、「立法権は天皇国会と合同して行う」、「天皇もしくは皇族を被告とする訴訟」などの条項を含む、きわめて自由主義的な草稿であった。しかし、欧米列強の外圧に対し、日本は古来より受け継がれてきた伝統的権威によって、より強力な国家として力を結集するため、井上毅、山県有朋、福地源一郎らによって大幅に加筆編成され、明治十五年「軍人勅諭」として公布された。

一方、学者としての周は、わが国最高の学術団体である東京学士会院会員(現在の日本学士院)に推され、第二代会長となり、以後七回会長に選任された。

周の思想的立場は、青年時代租練学の「実学」に志して以来、『空理論(形而上学)でなく、また物理学(唯物論)派でもなく、実理哲学(生性発蘊)』であった。明治十七年五十五歳、この学士会院で行われた演説「論理新説」においても、従来のカント、へーゲル、ミルの倫理学は、「理ヲ明ラカニスル観門(セオリカル認識)ノ論理学」であったが、今此に新に説くのは、「行門(プラクチカル実践)ノ論理学」であるとして、実践の論理学を説き、周は国家政治の最大目的は「富強」にあるのであって、圧政主義、自由主義、理論急進主義、保守主義など、一主義に拘泥してはならないとする。彼の哲学は「迫りくる夕闇と共に飛びはじめるミネルヴの桑」(へーゲル)の如く、時代におくれてあらわれる哲学ではなかった。それ故に日本の現実と如何に生きるべきかの実践の立場に立つとき、他国の脅威は未だ去らず、不平等条約も改正しなければならない時勢であったため、国の行く末を思い熱情をもって、繰り返し国の富強を叫んだ。国家の中枢にあって行政活動を行うことと、学者として、教育者として啓蒙活動を行うこととは車の両輪の如く、周の実理哲学の立場からして当然の活動であったといえよう。

二度目の帰省

明治十四年(一八八一)、周五十三歳、父危篤の報を受け、妻升子と共に帰省。臨終をみとった。墓は旧城北の乙雄山の山麓に建て、墓碑銘は周がかいた。銘の最後には「哀々たる慈怙、帰して此の丘に蔵る。令徳永く施して斯の孫に謀を貽す」(原漢文)と書かれている。この帰省のおり、三宅俊輔らのキリスト教についての問いに、彼は「キリスト教は世界的な宗教の一つである」と答えた。三宅は後に、熊本回春病院でライ病患者の治療に生涯をささげ、東洋のシュバイツアーと呼ばれた。

『私擬憲法草案』

上京後、文部省御用掛となり、東京師範学校校長事務取扱となった。参謀本部御用掛も兼務した。また国の最高法規である日本憲法草案の起草を山県有朋より委嘱された。

「私擬憲法草案」として山県へ提出した周の草案は、「国法上においては朕(天皇)我が帝国日本海陸軍の大元帥として総軍人の首師」であるとして、国法上の制限を加え、「天皇若クハ皇族ヲ被告トスル訴訟ハ大審院二出願ス」として、法的に規制を受けるとする極めて自由主義的草案であったが、制定された大日本帝国憲法では、その地位は絶対神聖至上主義に改められた。井上毅は、「西氏之草案は他の私擬案の比にあらず、十分用意の苦撰と存じ奉り候」と高く評価している。

晩年

五十五歳より右半身が麻痺しはじめ、五十八歳、健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を各々辞職した。

六十二歳、貴族院議員に選ばれたが、翌年、体の衰弱がはげしくなり辞職した。明治二十五年大磯の別邸に移った。歩行は不自由で外出は不可能であったが、学問の研究は続けられ、西洋の心理学と、東洋の儒教・仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書きつづけた。その著「生性発蘊」は、ついに未完に終わった。

明治三十一年、天皇は周の功績に対し「勲一等瑞宝章男爵」の位を授けた。その勅使が来たことを養子の紳六郎に告げられると、周はかすかにうなずき、六十九年の生涯を終えた。

おわりに

周の生きた幕末から明治という時代は、国家の存亡をかけた日本の一大変革期であった。ペリー来航に象徴されるように、喉元につきつけられた凶器(大砲)を眼前にし、それをつくっている国の制度と学術を究めるため、津田真道と共にオランダヘ留学した。帰国後、国防が急務とざれる時代にあって、周は愛国者としてカントの永久平和・世界連邦を理想としながらも、軍人訓戒・兵賦論・軍人勅諭稿などで、軍人のモラルの確立をめざした。特に軍人は政治に関与してはならないとした。一方、日本人の精神の近代化と制度の近代化をはかると共に、西洋哲学も時代に適合して便利がよいからという理由で、J・Sミルの功利主義、コントの実証主義などを、日本に移植したにとどまるものではなかった。

「古今、和漢洋、いずれかにこだわったり、自己の立場の便宜などによって、学問の一派に偏ってはならない。事物に備った理を信ずることである」(復某氏書)。また、「学問の探究には哲学上の見解をもつ合理主義が必要」(学問ハ淵源ヲ深クスルニ在ルノ論)、「造物の微妙に達すれば、畏敬の心日に日に深かうして己むこと能わず」(復某氏書)として人間の英知では計り知れないものへの「畏敬の念」をもたなければならないとして、批判主義的合理主義を説いている。藩校の学問を中心に学んだ儒学・国学の東洋の思想に加え西洋の学問を総合して、周独自の「一大哲学体系」の確立を試みた。まさに近代日本哲学の祖にふさわしい、スケールの大きい見解をもっていた。

周の諸論文で確認されているものだけでも、哲学・論理学(致知啓蒙)・心理学関係二十八篇、法学・政治関係十六篇、社会経済関係三篇、言語・国語関係四篇に及ぶ。日本近代化への啓蒙活動と国の行く末を思う熱情による実践活動が、両輪となって働き、日本史上に大きな轍をのこした。

墓は東京・青山墓地にある。


沼津香陵ライオンズクラブ三十周年記念講演会資料   鼎談の記事

日時平成十八年三月十八日()午後三時三十分〜五時場所沼津軒

『西周と津和野』松島弘

一、西周の業績

○学者

・哲学者 心理学者 美学者 言語学者 法学者 啓蒙学者 宮内省侍講 東京学士会院会長

○教育者

・養老館句読 蕃所調所=開成所(東大の前身)教授

・私塾「更雀寺」「育英舎」主宰

・沼津兵学校頭取文部省御用掛 大学南校規則制定

・東京師範学校校長事務取扱い

○政治家・徳川幕府目付 元老院議官 貴族院議員

○日本軍制の基礎確立

・陸軍省参謀本部課長(陸軍大丞)「兵語字書」「軍人訓戒」「軍人勅諭草案」(欧米列強

の日本進出、植民地化の危機という時代背景)

二、津和野における西周

 

…幼少期より脱藩まで

(一)誕生

文政十二年(一八二九)二月三日津和野町森村堀ノ内に生まれる。

明治三十年(一八九七)一月三十一日六九歳大磯の別邸で死去

○藩の外科医西時義(寿雄)の長男

○「名」経太郎、寿専、時懲、魚人(なひと)、魯人(ろひと)、修亮、周助、周

○「号」鹿城、天根、甘寝、甘寝舎、甘寝斎

(二)幼少期に受けた祖父時雍からの好学の影響

「周(あまね)の少(わか)うして学を始めるは、実に祖父の薫陶による」(西周伝)

※時雍藩医井関見節(蕃利)の三男、内科、外科に通ず。朱子学を久米訂斎らに学ぶ。

四歳(天保三年一八三二)祖父より孝経を学ぶ

六歳(天保五年一八三四)祖父より四書を学ぶ。

(三)養老館で学んだ教科等

十二歳(天保十一年一八四〇〉

藩校養老館入学、山日慎斎(顕蔵)に句読を受く。他に森秀篭、村閏要蔵、小野寺藤太郎(書道)、瓜生重蔵(詩賦)らに学ぶ,

教科、五経、近思録、靖献遺言、蒙求、文選、左國史漢(春秋左氏伝、国語、史記、漢書)

趣味 能、狂言、俗書乱読、藩校、西洋医学科は嘉永二〜三年にかけて設立された。

()家業瘍医(外科医)を継ぐ決意

ー徂徠学への志向を述べた文よりー

西家は代々藩医を家業とするものであり、やがて長子の自分は、家業の瘍医(外科医) を継がなければならないとすれば一体何のために、今まで儒学を勉強してきたのかわからなくなる。儒学に比べれば「医は小技、有志の士の願所に非る」もので、なかでも「瘍医(外科)は小の小なるものにて、その賎技たるや論ずることなし」しかし、この道(瘍医)から英雄豪傑が出ていないとすれば、奮然として「漢蘭(中國・オランダ」を呑幵し、古今を掌握して、」「瘍科一世之宗とならん。」と決意した。

時に幸いにも二三之朋友と共に相より、切磨して、道の大要をほぼ会得していた。

この朋友には、先輩も含めると、吉木蘭斎、井関家、森家(秀庵)、町医者、池田多仲らが考えられる。

 

(五)十一代藩主亀井茲監(これみ)の命による一代還俗と、母の死

一代還俗により「七十(十七?)の参画一旦して廃す」狼狙恍惚、茫然手を下す處無きがごとし「継而阿母忽然逝焉」「鳴呼余の不幸の甚しに此に至るか是においておか余の悔憾憂悶亦如何にせん哉」「余は則ち天地間之大賊」

()徂徠学への志向

長子として家業への責任。藩命。母の死。自我にめざめた青年「西周」が、つき当たったいかに生きるべきかの壁。

十八歳、風邪で病臥中、異端の書、荻生徂徠(一六六六〜一七二八)の「論語微」を読む。ついて「徂徠集」を読む。

十七年の大夢、一旦にして覚醒する。」「空理は日用、無益にで、礼楽(法律政冶社会規範)、これを貴ぶべし」「人欲は浄壷せず」「気質も変化しない」ものである。

朱子は理気説において理(宇宙の根源、本質、人間にあっては本性)、気(物質、人間によっては肉体、気質)説において気質の性は修業により本然の性にかえり聖人となるという。聖入の道(人文科学の法則)と自然の理(自然法則)とは別のもの「人欲は無クスコト」も

「気質ヲ変化」することも現実的とはいえない。孔孟は人間について寛大平易である。聖人は人情を捨てていないのである。このように思想的に回心をみた周は「鳴呼夢が醒か」「我を喚ぶ者は誰か」と、徂徠学への志向を述べた文にその感概を記している。

()大坂・岡山への遊学(二十一歳〜二十五歳)

松岡隣、中島玄覚らの親友を得る。

(八)脱藩

二十六歳 安政元年(一八五四) 奉願口上覚(脱藩時の遺書)

@

津和野本学(国学)は日本人の精神的拠り所を国学に求めた反面、西洋事情の摂取に努めた。西洋列強の日本植民地化の波に対抗した。西周の西洋の文物制度を知ることが、西洋に勝ることとする志に同情した。

     岡熊臣(一七八三〜位置八五一)「漂流御覧之記」「魯亜使人貢記用」「解体新書」筆写(桜之志豆玖)「宝麿七年漂流人紀聞」他

 

     大国隆正(一七九二〜一八七一)オランダ語、天文窮理(物理・哲学)を学ぶ。虚文虚武の排斥「開國論」「通商自由論」、西周脱藩の年、江戸より津和野へ向け発つ

 

     池田多仲脱藩後の西周を手塚律藏(又新社、英蘭塾)に紹介。多仲は国学者、岡熊臣に入門。蘭学は室柳仙に学び後、幕府に仕える。女婿の池田謙斎は東大医学部総理、侍医局長、宮中顧問官

A西周「交際人名録」にみる津和野藩、国学者との交友

神紙官副知事  亀井茲監(旧藩主)明治天皇即位新式の制定

同右 神祇大輔 福羽美静()西周と共に東京学士会院会員「日本文学会社創始」の案を提出、西周賛成演説(但し文部省か学士会院か別れる)

宣教少博士   石河正養

神祇官     森岡幸夫

佐伯利麿 即位新式制定

山田正英 即位新式制定

神祇宣修局課長 大谷秀実 即位式記録

内閣書記官

 

三、西周二度の帰省

()一回目の帰省  四十一歳

明治二年(一八六九)十一月一日沼津発、十二日 津和野着〜翌年、三月一日まで賜暇百日

津和野藩知事(旧藩主)亀井茲監の諮問を受け、

「文武学校基本並に規則書」、「復某氏書」を著す。

 

復某氏書

明治三年(一八七〇)二月十五日

国学のめならず儒学者、洋学者への批判書であり、「一貫の理」を求め、また合理主義が絶対的ではないことを述べた書である。

国学者の信ずる古事記、旧事記、日本書紀の神代の巻など、文字もなく科学も発達していない時代、ミトロジー(神話)の形をとったものである、タラヂシユン(伝承)といってもよく、否定はしない。イザナミ、イザナギの二神が「嶋を生ミ、火を生む」などみな「嶋を見出し火を発明する」の譬へであって実理に照したものでないことは「児童」でも知っており、それを「いたずらに信ずること」は間違いである。「漢学者についても今日にあたり富国強兵なと、国家の急務なれと、徒に四子六経なとを講究し詩文書画なとを玩ふものから実にも唐人の居候を我が国に置きたるように思われ」憂いたくもなる。西洋学者についても、「一技一術を講ずる輩の、洋兵とか洋算とか、洋書とか、舎密(化学)とか医術とかー世に資して如何にも益あり」ただ「誰そかうちに経済とか、富国とか唱ふる者の素よりかの工コノミーポリチックという学術に通ずるにはあラテ」「強くに西洋のまねなどして民生に傷つくことはいと嘆かわしき事」また洋学者の中にもみられる「徒に天地を死物とし造化を自然とし畏敬の心絶えて存することなく、己レがほしいに妄行を働く」アテイシスを排斥する。彼は唯物論者ではないが、石の地藏や観音の木像は人間の形に似て意志あるものと、「能く、禍福をなすものと真に道理をして拝礼する。このような何の実証もなく、木石を意思あるものとして、無批判的に信じていることを排斥する。真に道理を知り、それを信ずるとは何か。「人というもの生まれながらにして知るものにあらざれば(注カントのいう後天的)必ず外物の感覚によりて初めて吾が智を開き、其の開きたる智によりて推しても知り考えても知りて其理の然るべきを信ずる天授の信である」という。人間の理性や実験では未だ到達できない造物主の霊妙不測を感知する畏敬の念を持たなければならないとした。

 

文武学校基本並規則書(明治三年)

「学校は入材教育之地治国安民之本に而四海古今とも同一轍之急務」

「朝廷二而も御多端二在らせられ候えば学校之設も末だ全備とは難申候」

小学校 (五、六〜十七、八歳)↓文学科 資業生(予科生三〜四年)↓本業生(本科生二〜三年)

文学科 政律(法・経・商)、史道(史学、文学)

医科、利用科(数学、理学)

武学科 歩兵科、砲兵科、築造科(本科)

 

(二)津和野藩貢進生制度を具申(

山遮丈夫  (日本近代紡績業の父〉西周の私塾、育英舎に学ぶ

小藤文次郎 (大学南校へ、日本地質学の父)

八杉利雄 (熊本衛戌病院長)次男は八杉貞利「ロシア語辞典」

大岡 哲  (養老館助教、県下中学校教官、廃藩の上表文記草、西周頒徳碑選文)

加部巌夫 (神祇官、宮内省、文部省出仕)

森林太郎 (鴎外)は、幼少を理由に父静男が上京を辞退

 

()二回目の帰省 五十三歳

明治十四年(一八八一)四月・十四日津和野着父寿雄の病気見舞いと臨終

父、士伍長 (家老・中老・物頭に次ぐ百五十石以上)外科、内科兼務、藩主付典医(執匙医)、墓碑乙雄由(永太院〉、享年七十三歳。墓碑銘(西周)

() 西周とキリシタン

慶応四年(明治元年一八六八)浦上キジシタン二八名津和野藩(四万三千石)へ配流

亀井茲監、神祇官副知事

この年、十二月から翌二年一月にかけ、神紙少副、福羽美静、津和野でキリシタンに会う

明治二年十一月 西周帰省

明治十四年(一八八一)西周父病気見舞いのため帰省

三宅俊輔、キリスト数が世界的な宗教であることを聞き、入信

「政府既ニ教門ヲ是非スルノ権ナシ」(『教門論』)西周、明六雑誌(明治七年刊)

「西哲の学問を学んだが自ら洋学者とはいわない、儒書は大方究めるが儒者という名目を好まず、わが国の書籍をも見たけれども本学者、国学者とはいわない。孔子の教えも釈迦の教えもキリストの教えでも、五官の実徴()に違うことがなかったなら皆取りて用うべし」(『復某氏書』大意)


『議題草案』(「日本の近代2」坂本多加雄著より)


諸侯による上院、また各藩有志による下院を設け、そこでなされた決定を「禁裏(きんり)之権」の主体である朝廷が裁可する(鈴定之権)という形式がとられている。問題は、「政府之権」というものが立てられている点で、「公方(くぼう)様即ち徳川家時之(ときの)御当代」が把握するとされているのだが、この「政府之権」と呼ばれる権能は非常に広範で、行政権をすべて含み、さらには「幾百万石之(の)御領」のゆえに、上院の議長たる権とそこでの三個の投票権、そして下院の解散権も含んでいることである。朝廷が把握する「禁裏之権」は、いま述べた裁可権が拒否権を含まないことに加えて、ほかに、度量衡を定める権や爵位を与える権、紀元を定める権など、非常に形式的なものばかりであるのに比べて、「徳川家時之御当代」の把握する「政府之権」は極めて強大である。